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「これからこんなに食べることができる」武田砂鉄が綴る、アイスの思い出

フリーライター・武田砂鉄が語る、アイスの思い出。

illustration: Fukiko Tamura / edit: Emi Fukushima

文・武田砂鉄

実家には「常備されているアイス」と「買ってきたアイス」の2種類があった。「常備されているアイス」だって、「買ってきたアイス」に違いないのだが、さっき買ったアイスと、しばらく冷凍庫で眠っていたアイスではテンションが異なる。今も昔も変わらない、世界共通の認識だろう。

両親と兄と自分の4人で暮らす家の冷凍庫には、スーパーで買った箱のアイスが常備されており、アイスが好きだった母親は、無くなるタイミングを見計らって補充していた。いつだったか、冷凍庫の奥から、母親のためだけのちょっと高いアイスが発見された時には、緊急家族会議というか、暴動前夜というか、張り詰めた空気が流れたのだが、朝からドタバタと男3人を会社や学校に送り出した後に、家事をこなし、ようやく一息つきながら、ちょっと高いアイスを食べたくなる気持ちもわかるよね、と思えるのは、今こうして大人になってからである。高級アイス隠蔽事件の後、悪童2名は正義感を振りかざしながら、冷凍庫の奥までチェックするようになった。

いずれにせよ、冷凍庫に入っているアイスは自分で選んだものではない。時折、スーパーについていくと、母親が目を離した隙にカゴにお菓子を放り込んでいたが、あちらは子どもがお菓子売り場で画策している間にいつものアイスを放り込んでいた。いつの間にか、箱のアイスは母親が選ぶものと決まっていた。逆らいもしなかった。

なぜ逆らわなかったか。結構な頻度で、「アイス無いから買って来なよ」と言われる夜がやってきたから。箱のアイスが無くなっている。クソ暑い。アイス無いとやってらんない。この「やってらんない」を4人で共有できる家だったので、「無いよ!」との抗議がすぐに認められた。

東京都多摩地方、多摩湖のほとりに住んでいたので、近くにコンビニはない。夜9時まで開いていた酒屋さんが300メートルくらいの位置にある。顔見知りが多い住宅街だったこともあり、子どもたちだけで緊急対応のアイスを買いに出かけた。500円を握り、「うおー」「きゃほー」などの奇声をあげながら、夜道を小走りする。酒屋さんに入ると、店主が「また来たか」といった表情を向ける。酒屋さんなのでアイスの種類は豊富ではない。母親はかき氷系、父親は「なんでもいい」、その指示をこなし、その後で自分たちのアイスを選ぶ。時折ラインナップが変わるが、兄は新しいアイスにチャレンジするのが好きで、明らかに選択を失敗した時にも、その失敗を認めないので、家族3人から突っ込まれていた。

自分はいつもパナップのグレープ味を買っていた。細長いけど、しっかりとした量がある。行きは小走り、帰りは溶けちゃいけないのでダッシュ。家に帰ると母親から「またパナップ?」と呆れられる。あんたもいつもかき氷じゃんか。パナップを食べるために、長いスプーンを使う。グレープの蜜をバニラアイスに混ぜながら食べていく。「こんなにある」が、「まだある」になり、「もう無い」で終わる。当たり前の流れだが、その流れを自分のためだけに作れるのが嬉しかった。箱のアイスは自分のものではなかったが、このパナップは自分のものなのだ。

買いに行って、選んで、食べる。今では、アイスに限らず、毎日のようにそれを繰り返しているわけだが、あの頃、自分にとっては、「アイス無いから買って来なよ」に始まり、「もう無い」で終わる一連の流れが特別なものだった。寝るまでの時間、自分の部屋で過ごしていたが、口の中にまだバニラの成分が残っており、舌先で歯を舐めるなどして、食べ終えた口の中を堪能した。

「常備されているアイス」と「買ってきたアイス」の存在感はこんなに違う。坂道の途中に家があり、行きは下り、帰りは上り。息を切らしながら家に駆け込み、「これからこんなに食べることができる」とスタンバイする興奮は追体験できない。追体験できないのがいい。

アイスの思い出。「これからこんなに食べることができる」文・武田砂鉄