西洋美術史の中でのアジアの位置づけと、そのストーリーを伝える「M+」
スウェーデンのストックホルムに21年間拠点を構え、インディペンデント・キュレーター、ライター、国立美術大学でエキシビジョンマネージャーの仕事などを務めてきた経歴を持つ横山いくこさん。彼女が「M+」のリードキュレーターへの就任をきっかけに香港へ移住したのは、2016年のこと。それまで一度も香港を訪れたこともなかったという彼女がこの大転機を決めた背景には、専門分野で分けず垣根のない広い視点でアートやデザインを見る「M+」の考え方に共鳴したところが大きいという。
「私がアート業界で仕事を始めた当時は、いろいろなジャンルをミックスして学ぶことにはあまり利点がなく「専門性がない」と言われたりしていましたが、私はもともと一つに特化したことよりも学際的に幅広いことしか興味がなくて。やっぱり広く繋がっている世界を分けてしまうのは面白くないのでは、という気持ちがずっとありました。スウェーデンでもそういう活動をしていたので、香港が作ろうとしていた「M+」の考え方と私の経歴がちょうど合ったんだと思います。成人してからずっと学んできた西洋と自分の出身の東洋のカルチャーが、ここではミックスしてそうで面白そうだなというのもありましたね」
「M+」では20、21世紀の膨大なアートの中で、視覚文化(ビジュアルカルチャー)を一つの切り口として、香港に視座を置きながら、トランスナショナルな視点を持ってアジアの作品と世界との“関係性”を取り上げている。
「アジアそれぞれの国の優れた作品を取り上げるローカルの美術館はすでにたくさん存在しますが、それが「世界とどう繋がり影響しあっていたか」という視点にフォーカスする美術館はまだどこにもなかったんです。よく知られたアートヒストリーではジョン・ケージが日本の禅思想に影響を受けていたり、ヴィデオ・アートの創始者と言われるナム・ジュン・パイクは韓国人でドイツやニューヨークで活躍していたように、何らかの形でアジアのものと西洋とは美術史の中で重要なリンクがあり、まだ知られていないヒストリーは沢山あります。その関係性を取り上げ、伝えることが重要だと思っています」
現在、「M+」内では横山さんがキュレートした「Things Spaces interactions」展が開催中だが、その中のタイシルクの織物におけるアメリカの実業家ジム・トンプソンの影響は、その“関係性”を取り上げた展示の一例として興味深い。
「タイは植民地化されませんでしたが、50年代~70年代にはアメリカがタイを反共産主義の拠点としていたので、多くのアメリカ資本やカルチャーが入ってきていました。そんな中、タイシルクの織物に目をつけたジム・トンプソンは、その再生を図ってビビッドな色のタイシルクを生み出しました。それ以前は草木染で作られていたので、色味的に大転換でした。今みなさんがタイの象徴だと思って浮かべるあの明るい色合いが、実は植民地、冷戦、アメリカという影響によって生み出されているんです。様々なものが反映されてデザインや建築、アートが生まれているという点が面白いですよね」
多様性が自然に存在し、次のステージに向かう香港
世界のアート業界はここ数年、凝り固まった価値観を変えていこうと今までノン・メインストリームとされていた人種やジャンルを大々的に取り上げる動きが盛んだ。そんな中、香港では今とても自然に伸び伸びとアートと向き合う環境があるという。
「ヨーロッパやNYにも最近改めて行きましたが、アートシーンでも“痛切感”があるなと感じました。けしてネガティブな意味ではないのですが、20世紀美術史のギャップを埋めようと、例えばアジア人やアフリカ人、また女性を意識的に取り入れようとしています。それは素晴らしいことですが、アジアの場合は、彼らが埋めたいギャップの真っ只中にいるので、その意味で、勢いがありつつも萎縮していない感じがします。香港はもともとミックスカルチャーで多様性がありますし、商取引のハブでもあります。『M+』でも20カ国以上の人が働いていますし、修正しなければいけないというプレッシャーもなく、自由な雰囲気ですね」
日本だとアート業界に関係ない人がアートフェアやオークションに行くのは躊躇するかもしれないが、香港では業界に関係ない人たちも好奇心を持って見に行く人が多いという。「M+」の平均のビジターで一番多いのが20~30代。それに続くのが30〜40代、その後がシニア、とアートに興味を持つ年齢層も若い。パトロンや社会貢献のカルチャーがあり、成熟したコレクターたちにとっては、美術館をサポートすることが一つのステータスにもなっていて、「M+」もオープンまで10年ほどかかっているが、「早く開館してくれないと困る」との声が上がっていたくらいだとか。
敷居自体がもともとなく、それぞれをそのまま受け入れ共存している印象のある香港は、アートシーンの中でも次のステージを見せてくれる場所として存在感を増している。