座標がずれる。
文・玉置周啓
友人を含めた三人組で東南アジアを巡った際、タイのアユタヤにて友人たちとはぐれたことがある。早朝、駅で自転車を借りた私たちは、道中に現れた野犬と追いかけっこしながら遺跡群へと向かった。堪らないほどの絶景を見て回り疲れきった私たちは、日没までに駅へと帰る積りで来た道を戻る。
ところが鬱蒼とした細道の途中で気になる木を見つけた私は、夢中になってカメラに収めているうちに他の二人を見失ってしまった。慌ててスマホを取り出すとWi−Fiが故障している。駅の方角は把握できているはずだが、土地勘のない観光客同士が無事に合流できる保証はない。
子どもの頃、誰かに置いて行かれたときのような、どうしようもない不安に襲われた。ひとまずペダルに力を込め立ち漕ぎを始めたが、先程までは風を切るように動いたはずの自転車が、独りでは鈍重に感じられて仕方がない。
あとどれだけあるだろうと視界の狭い細道の先を見ると、突き当たりの幹線道路から光が漏れていた。あそこに出るまで頑張ろう。そう言い聞かせて漕ぎ進み、やっとのことで大通りに出ると、道路を挟んだ向こう側一面に広がる水田に、真っ赤な夕陽が反射していた。私は、故郷に帰ったような気持ちになった。
かつて似た景色を見たわけでも、不安が消えたわけでもなかった。しかし、すっかり高揚してしまったのである。旅先と故郷、未知と既知、不安と高揚。これらが同居し相殺した結果、自分の居場所が宙ぶらりのように感じられた。私は、今何処にいるのか。駅で合流した友人にその体験を語ったが、共感は得られなかった。
それ以来、自分の座標がずれるような作品に惹かれる。そしてこの感覚に理解を示してくれるのは、座標をずらしてくれる作品だけである。