ウジェーヌ・アジェと、19世紀の写真家
ウジェーヌ・アジェ(*1)は19世紀のパリで、大きなビューカメラと木製三脚を抱えて街を徘徊していた。1889年頃から30年以上かけて8000点以上の写真を残し、写真で街を記録することで移りゆく都市と時代の証人となった。
この頃、まだカメラは上流階級のみが手に入れることができる高価な機械だった。イギリス人のフリーチェ・ベアト(*2)は、横浜に写真館を開き日本の記録写真も数多く残した。スコットランド人のジョン・トムソンは、ヴィクトリア朝時代のロンドンの貧困社会をありのままに捉えた写真のほか、香港や台湾を訪れ写真を撮影。
写真の可能性を求めて、あるがままに捉える
アメリカ人のアルフレッド・スティーグリッツ(*3)は、写真の芸術的価値を高めようとピクトリアリズム(絵画主義)を提唱した後、写真本来のあり方に回帰してストレート写真に転向。1893年には持ち運びしやすい4×5のカメラを手に入れ、ニューヨークの街の活気を素早く切り取り、その後4×5の小型グラフレックスを用いる。さまざまな活動で写真文化の発展に生涯を捧げた。
スティーグリッツに衝撃を受けて写真家を目指したのがポール・ストランド(*4)。現代絵画や彫刻に触発され、ストレートでリアルな独自の写真スタイルを生み出していく。
スティーグリッツが1902年にエドワード・スタイケン、クラレンス・ホワイトらと立ち上げたのがピクトリアリズムの写真家集団〈フォトセセッション〉。関わった写真家の多くがキャリアの中でストリート写真を残している。
ハンガリー出身の構成主義美術家・写真家モホイ=ナジ・ラースロー(*5)はドイツへ亡命し、バウハウスに招聘(しょうへい)される。いくつかの国を転々とした後にアメリカへ亡命し、シカゴにニュー・バウハウスを設立。「光、空間、運動」の探求のもと、ストレート写真においては、非日常のスナップショットや、遠近法的構図など、新しいビジョンを打ち出した。
華やかなパリを舞台に、決定的瞬間を求めて
舞台はベル・エポックと呼ばれ、さまざまな芸術が花開いた20世紀初頭のパリへ。フランスの裕福な家庭出身のジャック=アンリ・ラルティーグ(*6)は、1902年に8歳でカメラを手に入れて以来、小型カメラで当時まだ珍しかった自動車や飛行機、裕福な女性のファッションなど躍動感ある写真を残した。時代の隆盛を優雅な遊び心で捉えた天才的アマチュア写真家。
ニューヨークでスティーグリッツの291ギャラリーへ通っていた若きマン・レイは、パリに移り多くの芸術家たちと交流を深めた。ハンガリーに生まれ、パリへ移住したアンドレ・ケルテス(*7)もその一人。1927年に35mmのライカを手に入れ、洗練された構図でパリの風景を切り取り、37年にニューヨークへ移る。戦争に翻弄されながらも、叙情的に世界を見つめた。
アンリ・カルティエ=ブレッソン(*8)は連続撮影が可能な35㎜のライカで、世界中の都市をスナップした。1947年に国際写真家集団〈マグナム・フォト〉をロバート・キャパらと結成し、政治的混乱の地域をルポルタージュする。52年に『決定的瞬間』を刊行し、写真にとっての構図の重要性を世に知らしめる。スナップは時代の変革と人々の生を写し取ると証明した。
夜のパリをビューカメラと三脚、マグネシウム・フラッシュを用いて写したハンガリー生まれのブラッサイや、パリの街角の一瞬を捉えたロベール・ドアノー(*9)、『ライフ』誌の仕事を行った最初のフランス人写真家ウィリー・ロニスなど、パリのストリートから多くの才能が生まれ開花した。
変わりゆく都市風景とその裏側を記録する
パリでマン・レイに学んだ後、ニューヨークへ戻った女性写真家ベレニス・アボット(*10)は、1930年代を中心に変化する都市建築をストレートに記録し、写真集『変わりゆくニューヨーク』にまとめた。パリでは晩年のアジェに出会い、彼のプリントとガラス乾板を購入。その功績を世に伝える立役者に。
1929年、ニューヨークの株式市場の大暴落を皮切りに大恐慌へと発展。困窮を極めたアメリカの農村地域の実情を記録するため、農業安定局(FSA)は国家的な「FSA写真プロジェクト」を立ち上げ、35年から44年頃まで撮影を行った。
経済学者ロイ・ストライカーのもと、ドロシア・ラング(*11)、ウォーカー・エヴァンズ、ベン・シャーンらが参加し、豊富な資金をもとに南西部の農業地帯へと向かい、農村の貧困と自然災害による被災を克明に記録した。FSAによって残された27万点以上の写真は貴重なアーカイブであるとともに、ドキュメンタリー写真、そしてストレート写真の重要な位置づけとなっている。
ストライカーにFSAを解雇されたウォーカー・エヴァンズ(*12)は1938年にMoMAで回顧展『American Photographs』を開催。そのカタログでは写真を文章のように組み合わせ、写真や写真集が芸術作品となり得るシークエンスで、写真の可能性を大きく押し広げた。
以降も地下鉄の中の乗客を隠し撮りしたり、看板のサインだけを写すなど、イメージのアイコニックな資質を見抜き、のちのポップアートの規範ともなった。
オーストリア出身、アメリカに移住したウィージー(*13)(本名アーサー・フェリグ)は、1930~40年代に多くのスクープ写真を撮影。警察無線の傍受を許可され、ニューヨークの事件現場へいち早く駆けつける。時には死体や流血写真も撮影し、車の後ろにしつらえた暗室で現像。都市社会の姿や事件、欲望をユーモラスかつスキャンダラスに捉え、タブロイド紙を賑わせた。45年に自伝『裸の街』出版。
パーソナルな視点から社会を見つめる
ドキュメンタリー写真を基盤としながらも新たな流れが生まれつつあったアメリカでは、次世代の写真家たちが見出されていく。彼らによってストリート写真は、さらなる発展を遂げる。
ブレッソンに影響を受け、エヴァンズに写真を学んだヘレン・レヴィット(*14)は、1930年代後半から、ライカでハーレムを含むニューヨークの子供たちのストリートスナップを撮り始める。その視点は記録や報道写真の枠組みを超えて、自分が生まれた都市への愛情に溢れていた。
ユダヤ系スイス人のロバート・フランク(*15)は、エヴァンズとスタイケンの後押しにより奨学金を獲得し、1955年から56年まで車でアメリカ中を回って旅をし、写真に収め、写真集『The Americans』が誕生。
馴染めないままにアメリカ人になった違和感とともに当時のアメリカの栄光の裏側にある陰の部分を写し取る。パーソナルな視点で捉え、後の写真家たちに大きな影響を与えた。発売当初、アメリカンドリームに沸いていた世論はフランクの写真に批判的な声も。
当時は誰も知ることのなかったアマチュア写真家ヴィヴィアン・マイヤー(*16)。死後、2009年にオークションで大量のネガが落札されたことで世に広まり、一躍脚光を浴びた。1956年からニューヨークで乳母をしながらストリートで生き生きと市井の人々を捉え、多数のセルフポートレートと合わせて15万点以上のネガを残した。
近年再評価されたもう一人がソール・ライター(*17)。雑誌などで活躍し、1945~65年に撮影していたカラー写真は、53年にスタイケンによって一部がMoMAで展示されるもほとんど知られず、80年代には一線を退く。2006年に刊行された『Early Color』が話題に。微妙な感性で生み出される、叙情的で色鮮やかな抽象的構図は、都市の風景を美しく描写している。
ウィリアム・クライン(*18)は、ニューヨークで社会学を、パリで文学を学んだのちに前衛画家フェルナン・レジェに絵画を学び、画家として独立してから写真を始める。
1956年にパリで刊行された『ニューヨーク』は、荒れた粒子、ブレやボケなどの画面でニューヨークのストリートをスナップした。従来の写真の型を破った大胆なスタイルで、急速に変わりつつあるニューヨークという都市の躍動とエネルギーを表現した。