繰り返し会いたくなる、本は一番身近な娯楽
というのも、20代の頃の貧乏生活が長すぎて、本というものを持てるような生活ではなかったんです。本当にお金がなかったので(笑)。でも読書は好きだったので、本は買うものではなく図書館で借りて返すもの。だから本棚を置く必要性もなくて。その延長線上で生活が続いているので、今でも本は買っても読み終わったら売ることが多い。もしくは後輩や友人が家に遊びに来た時にあげる。
「好きなの持っていっていいよー」と言うと、気づくとなくなっていたり。自分が読んで面白かった本は、もっと読みたい人の元に届いてほしいと思うんです。だったら小学校とかに寄贈した方が世間の役に立ちそうではあるけれど、なんだかそれはすごく厚かましいような気がして。
そんな生活の中でも繰り返し読みたくなる本というのがあるわけで、どうしているかといえば、ベッド脇に積んであったり、段ボール箱に詰めて置いておいたり。少し前までは、引き出しみたいになっている3段ボックスを重ねて置いていたんです。でも、最近気づいたんですよね。手放したくないと思って手元に置いているのに、ここまできれいにしまい込んじゃうと全然読み返さないな、と。
そこで、IKEAで買った蓋付きの箱にキャスターを付けて、押し入れから引き出してパッと開けたら本がある、というカタチに1ヵ月前くらいにようやくしました。今はその1箱分に本が収まっています。
一番本を読んでいたのは20代の頃かな。かといって読書家みたいに言われると、すごく知的だったり高尚な人間のような印象を与えてしまうかもしれないけど、本当にそういうことじゃなくて。映画に行くとかサブスクに入るとか、娯楽にお金をかけられなかったので、私にとって読書は一番安上がりな娯楽なんです。
何度読み返しても笑えるちょっとしたユーモアが好き
同じ本を何度も読んでいると、その時のコンディション次第で印象に残る部分や解釈が変わるんですよね。逆に言うと、繰り返し読むことでその時の自分を知る鏡のようでもある。好きな本の共通項を探してみると、何度読み返しても笑えるような、ユーモアという意味での面白さがある。
手元に置いてある本は比較的エッセイが多くて、中でも黒柳徹子さんの『トットの欠落帖』は常にベッド脇に置いてある一冊。タイトル通り、トットちゃんがいかに欠落していたかというエピソードが綴られていて、スゴくぶっ飛んだ話や恥ずかしかったこともスラスラと書かれているところが素敵です。そしてとにかく面白い。
私自身お笑い芸人を生業にしていると、それこそ自分のアカンところとか、やらかしたぁってことが多々あるけれど、こんなふうに人様に届けることが大事なんだと気づかせてくれる。すごく凹んで帰ってきた時でも、ベッドの中でページを開くたび、「欠落帖に書けることが増えただけや」と、心を凪の状態に戻してくれるんですよね。
谷川俊太郎さんのエッセイには、仕事とは、生きること、恋をすること、そして彼の死生観などが綴られていて、詩人の日常の中にユーモラスな眼差しを感じる。意外とぶっきらぼうな物言いなんだけど、シンプルに真理を突いていて、私にとっては哲学書のような位置づけ。
一方、『茨木のり子詩集』には、怒りのエナジーが溢れている。戦争が始まって、化粧もできひん、食べたいものも食べられへん……と、諦観が存在しているんだけど、基本ブチキレてはる。やっぱり女がキレてるとおもろいよな、と。感情に捨てるところなし!じゃないけど、自分もこんなふうに感情を昇華させてモノ作りができたらと羨望を感じます。
O・ヘンリーは私にとってもはや落語家。とにかくオチが見事。人間の情けなさ、恥ずかしさ、自意識過剰な描き方にお笑いのセンスをそこはかとなく感じます。師匠である夏目漱石との師弟関係を書いた寺田寅彦の随筆もめっちゃ面白い。この方もユーモアのセンスがおありですね。師匠に対して、「なんでそんなんすんねん⁉」目線があったり、私が芸人の先輩に対する感情と近いものを読みとった時にはグッときましたね。
私にとって同じ本を繰り返し読むという行為は、友人や知人を思い出す感覚に近い気がする。落ち込んだ時にふと電話したくなる友達、最近どう?と久しぶりにお酒を飲みたい昔馴染み。そういえばあの本どんな感じやったっけ?って知り合いに会いに行くような感覚なんですよね。