机上でコントを作り、
少し稽古をして、
舞台に立つ
一杯200円のコーヒーで朝まで粘りながら机上でコントを作り、少し稽古をして、舞台に立つ。
松竹芸能が私に初めて単独公演をやらせてくれたのは13年前、私が芸歴3年目の頃だった。当時、大阪には道頓堀角座という松竹芸能が満を持して設立した劇場ができたばかりであり、こけら落としには名だたる師匠方が集結し、東京から売れっ子のキンタロー。が来たり、それをチョップリンさんが見守っていたりしていた。その後キンタロー。もチョップリンさんも脱竹に大成功するとは露とも思っていなかった頃である。
芸能事務所には多かれ少なかれ「おされる」というものがある。所属タレントを事務所が「おす」という行為だ。大手プロダクションであれば事務所がタレントを「おす」とトントン拍子に仕事にありつけるのだが、弊社、松竹芸能、それも大阪班では、そんなことは夢のまた夢のような話であり、かつ、私が断言できるとすれば事務所に「おされ」た記憶などいっさいない。
当時の松竹芸能の売れっ子といえばよゐこさんやオセロさんであり(今や有野さん以外の皆さんも脱竹に大成功している)、大阪松竹は「女芸人」に目がない節があった。その背景には常に「第二のオセロを!」という浅ましいコピーと思惑があったように思う。
ゆえにルックスも可憐で、愛嬌があり、明るく、何が面白いのか分からない重鎮なだけの作家の戯言にも「やめてくださいよお」と可愛らしい声で返答することのできる、そんな「女芸人」や、あるいは見るからに太っている、メガネをかけている、派手な柄のシャツを着て派手な柄の蝶ネクタイをしているなどの分かりやすい「女芸人」が、大阪松竹では重宝され「おされ」ていた。お気付きだろうか、私が「おされる」要素などひとつもなかったのである。
それどころか私は芸歴2年目の頃に、件の何が面白いのか分からない重鎮なだけの作家にネタ見せをした際にダメ出しをされ「説教ですか?」と聞き返してしまいバチボコにしばかれ養成所を追い出されるという不祥事を働いた。よく考えれば20歳そこいらのガキくさい女をバチボコにしばきあげるなんてそれは重鎮なだけの作家側の不祥事な気もするが、それが原因で私はめでたく事務所ライブは出禁となるわけである。そう、「おされる」とかの次元にももはやいなかったのだ。
そういえば同じ時期、通天閣劇場の舞台では長刀で野菜を切る芸をされていたサムライ朝起太郎(あさ おきたろう)師匠が勢いよくトマトを切ったところ、最前の客の目にトマトの汁が飛び、「おいなんしてくれてんねん汁が目に入って痛いやないか!なんしとんじゃお前!」とブチギレられていた。右手には長刀を、左手には割れたトマトを持ったまま治安の悪い客にブチギレられ続けている師匠の姿は、こう言ってはなんだがいつもの野菜を切る芸をされている姿より何倍も笑えた。そもそもよく考えれば長刀で野菜を切る芸、とは一体なんなのだろうか。いくらなんでも安土桃山時代とかのひょうきんすぎないだろうか。そうしてブチギレられている師匠のもとに劇場の支配人が飛んできたのだが、客をなだめるとかではなく師匠に「出禁です」と言い放っていた。容赦がなさすぎる。ご高齢の師匠なのに。平然と出禁を言い渡していた。師匠でも出禁とかあるんや、と、知った2年目の頃だった。起太郎師匠は「へえ、ごめんなさい」と言っていた。私は起太郎師匠が大好きであった。お元気だろうか。
そんなこんなで私は事務所ライブに出られなくなったために野良のライブに出るしかなくなる。いわゆる「インディーズライブ」と呼ばれる、芸人が自分で主催運営する非公式のライブである。そうしたライブに出続けているとどんどんネタ作りも上手になっていき、さすればどんどんウケるようになり、自分を見にきてくれるお客も増えだした。その頃、事務所ライブには出られないので新ネタを試すため自分で単独ライブをやった。これが私にとって初めての単独ライブである。千日前にある味園ビルの中に入っている白鯨というライブハウスで、友人が5、6人来てくれ、正規のお客は8人くらいだった。そうして合計15人ほどの客しかいなかったが、私はとても嬉しかった。小さな白鯨にはパンパンの人数だった。忘れられない、たいせつな経験になった。ハクション中西さんが一本ネタで出演してくださり、にしね・ザ・タイガーさんと村瀬みちゃこさんが見にきてくれた。私は優しいお三人がとても好きだった。お三人ともお元気だろうか。
それから私は事務所を辞めてトーキョーという所に行ってお笑いをやってみようと思い始めるのであった。そもそも所属していても事務所ライブには出られないし、出禁レベルの芸人であるからしてオーディションなどももちろん振ってはもらえない。それどころか当番制で養成所の掃除をさせられたりライブの呼び込みに駆り出されたりしかけていた。(結果的に私は一度もそうした手伝いをすることがなかったために風紀委員的な女芸人の先輩に呼び出されビンタされたりもした)(私が悪い)。所属していても売れるために必要なことが何もできず、たまにテレビ大阪をつけると愛嬌があって可憐な松竹芸能の女芸人が通販番組で何かを食べたり何かを体験したりして何かをおおげさに言っており、わしこれにはならんでええ、と若かった私はふてくされて思ったのだった。
そうして大阪松竹に「辞めます」と告げると「辞めるな」と言われた。今世紀最大のなんでやねんである。トーキョーというところに行きたいのだと告げれば「トーキョーにも松竹はある」と言われ、何かと丸め込まれて私は東京松竹へ移籍することとなった。脱竹大失敗である。
野良のライブで評価を得だしていた私に、当時の大阪松竹は風見鶏のごとく態度を軟化させ、事務所のランキングライブに出ることとなった私はさらりと優勝を決めて優勝特典として受け取ったのが事務所公式の単独ライブの開催であった。今思えばライブの優勝特典が単独ライブの開催なんてまるきり横暴な話だが、それでも当時の私はとても嬉しかった。
松竹芸能の公式として打つ単独ライブの劇場は道頓堀角座だった。公演当日は、昨日までの晴天が嘘かのように土砂降りであり、開演直前に角座に雷が落ちた。信じられなかった。嘘だと思うなら当時会場に来ていたお客に聞いてほしい。完全に雷が落ちたのである。楽屋で私は「なんでわしばっかりそんなことなんねん」と泣きそうだった。
私の人生はどうしてこうも要らぬドラマチックが入ってくるのかと絶望しながらも、公演開始となり、収容100人程度の劇場は、お客さんに満席にしていただいた。その当時の自分にとっては凄まじい経験だった。松竹芸能は「ヒコロヒー初単独ライブ」と銘打っていたが、それはもちろん間違いではないのだが、私としての初単独はどこまでいっても味園ビルの白鯨のあの小さなライブバーのステージのままであるような気もしている。あの時の白鯨に、あの時の道頓堀角座に、来てくださった方々は、お元気だろうか。
あれから13年が経ち、私は今では事務所ライブ出禁芸人ではなく、どちらかといえば事務所支えまくり稼ぎまくり事務所にお金いれまくり売れっ子芸人となった。そして先日、13回目となる単独公演の幕を開け、そして、閉じることができた。
白鯨で8人から始まった単独ライブは、13年後、1500人を集められるようになった。チケットは今年も有難いことに即完売であり、もっと大きな劇場で開催してほしいと言われることもあるが、ピン芸人のコントゆえに劇場のサイズ感は大きすぎるものも好ましくない。どうしてこんな未来に来れたのか、自分自身いまだに不思議に思うこともある。この13年、芸歴でいえば15年、振り返るにはまだまだ若い数字ではあるが、ずっとやめなかったことは、芸人であることと、単独ライブを打つことであった。
芸人をやめてしまおう、と思ったことならいくらだってあった。東京に来てからはもっと壮絶だった。大阪とウケる箇所が違う。暗い性格もあり東京のライブシーンにも上手く馴染めない。東京松竹に移籍したって何も変わらない。「おされる」ことなど引き続きない。劇場での人気もない。たまにテレビのオーディションに引っかかってネタ番組に出演できる。収録が一緒だったよく知らない先輩が「いいネタやなあ」と言ってくれた。でも売れない。やめようと決めるたびに大喜利番組「IPPONスカウト」で回答が取り上げられる。テレビの向こうでバカリズムさんが「この子面白いね」と言ってくれていた。嬉しかった。辞めていいやと思えた。でも辞めない。そして売れない。売れる兆しめいたものさえない。R-1グランプリは準決勝までは進める。準決勝まで進むことも血反吐が出るほど大変なことで、準決勝に進むとすごいすごいとみんな喜んでくれる。でもいつもファイナリストにはなれない。いつもあと一個が勝てない。勝ちたいわけじゃない。でも負け続けることも辛かった。辞めたいのに、辞めてしまいたいのに、ささやかな喜びや希望によって、なかなか芸人を辞められない。微かな希望を捨てられないままでいることは絶望することにもよく似ており、もう、とても、疲れていた気がする。
私には才能がある、すごい才能があるし大丈夫、でも才能なんかないやん、どこにあるん、あるんやったら売れてるやん、いや私は絶対売れる、だっておもろいもん、おもろいこと言うし思いつくし、いやほんまにこれ売れんのか? このままほんまに売れんのか? 私のつくるコントってめっちゃイケてる、めっちゃおもろい、やっぱ私って天才、いや私のつくるコントなんかおもんない、今日もすべったし、あのボケ伝わらへんかったし、私はめっちゃ芸人、生き様そのものがボランティアやねんし、めっちゃ芸人に向いてるし、ううん、芸人なんか向いてない、最初っから芸人なんか向いてなかったんや、田舎に帰ってチエちゃんのスナックで働かせてもらおう、いやチエちゃんと仲悪くなりたくないしタイガくんのとこのコンビニででも働かしてもらおかな、いや、けど、タイガくん時々デリカシーないから嫌やねんな、あとタイガくんの嫁も性格きついしやっぱ嫌やな、やっぱ芸人やってたほうがいいな、いやでもほんまにこれ売れるんかな、いや売れるやろ、私やねんし、え、ほんまに売れるんかな、そんなようなことばかりが、ぐるぐると日常を行き来していた。
そのぐるぐるを掻き消す唯一の方法は、コントを作り続けることしかなかった。本当にそれしかなかった。社交的でもなく、愛嬌もない。一杯200円のコーヒーで朝まで粘りながら机上でコントを作り、少し稽古をして、舞台に立つ。そうしてコントを作る、ネタを作る、自分を、自分のネタを、ちゃんと自分が信じられるまで、自信を持てるまで、しぶとく、しぶとく、コントを作る。おもろい、おもんない、なんでこんな才能ないんや、うわめっちゃおもろいのんできたわし天才やん、を、行き来しながら、おもろい、と、自分が胸を張れるまで、作り続ける。
そうして単独ライブだけは粛々とやり続けていた。3回、5回、7回と回数を重ね、ある時から単独が即完するようになり、業界関係者も見に来てくれ始めるようになった。単独ライブのグッズは外注せずに自分で作ることによって向こう3ヶ月分くらいの生活費にはなった。テレビの向こうでは同期の霜降り明星やハナコが第七世代として活躍し始めていた。第七世代ブームに乗っかった若手お笑い番組が乱立し、私も新番組の最終オーディションまで残った。これや、ここで売れるんや、これは絶対に受かるやろう、と思ったが、結果的に、最終まで残っていたメンバーのなかから私とオズワルドとママタルトの3組だけが落ちた。非常にアーメンであった。伊藤と飲みながら「ムカつくし絶対売れような」と言った記憶がある。けれど本心はちぐはぐだった。伊藤も私も、きっと畠中も、もしかしたらママタルトも、そこで、どこかで売れることにはっきりと諦めをつけたような気がする。私は、多分、もう売れるとか無理なんやろうな、と、思っていた。否、伊藤だけは、ずっと売れることに臆病でなかった気もする。
で、あるからして、私はとりわけ単独ライブに集中していった。テレビではどうせもう売れない、もう売れるとかむり、でもコントは好きやし、おもろいのん作りたいし、単独やって会場大きくしてツアーできるような芸人になろう、そうしたらバイトしながらでもなんとかお笑いもやりながら食ってはいける、と、舵を切った。日々は変わらない。一杯200円のコーヒーで朝まで粘りながら机上でコントを作り、少し稽古をして、舞台に立つ。日々は変わらなかった。
それがどういうわけか、何度も諦めてきたはずのテレビで売れる、ということが、ある時期を境に実現しはじめた。スナックとネジの検品のバイトも辞めることができ、借金を返済し、レギュラー番組も増え、飲み屋で「女芸人じゃん、女芸人だったらこんな良い酒飲んだことないでしょ?良い服も着てないしね。かわいそうだね。いいよ、これ飲ませてあげるよ」と安物のシャンパンを片手に絡んできた男性に、「ありがとうございます、これ飲んでくださいね」と言って10万円のシャンパンを入れて殴って帰ったりできるようになった。良いか悪いかは知らない。
それでも、どれほど忙しくなろうと、単独ライブを打つことはやめなかった。これもまた、やめることができない、に、近いのかもしれない。
千鳥の大悟さんに飲みに誘われた際に「すみません来週単独で」と言うと「わしも見に行ってええか」といつも言ってくださるが「絶対に来ないでください」と言ってしまう。モグライダーの芝さんは「お前はほんと忙しいのにようやるわ、すごいわ」としきりに言ってくれる。紅しょうがの稲田は「あんた単独ふぁいと!かっこええ!」と変な絵文字のハートをつけていつも励ましてくれるし、エルフのはるは「ヒコさん何人おるんですか?」と言っていた。一人である。そういえば銀シャリの橋本さんに「ヒコちゃんは単独もやってるもんな」と言っていただいた際に「大したことはしてないですが」と言うと「いや、こんだけ売れてもネタを大切にしてくれてるってことがみんな嬉しいんやと思うで」と言われた。そんな風な見方をしてくださっているのか、と、驚き、少し、嬉しくもあった。先輩方も後輩たちも私が単独について話すと「そんなに忙しいのにすごい、えらい」という温度で労いの言葉をかけてくれるわけだが、でも、しかし、だけれども、実際は、すごいわけでも、えらいわけでもなく、情けない話だが、怖いのだと思う。
きっと世の中の皆さんが私を知るもっと前からずっと続けてきた単独ライブをやめてしまうこと、コントを作らなくなることは、作れなくなることとニアリーイコールで、舞台に立たないことは、舞台に立てなくなることとニアリーイコールで、それが怖くて、コントを作ることが好きで、舞台を作ることが好きだという感情と、同じくらい、そうした怖さにも支配されている気がする。だから、変わらず、変えられない。一杯200円のコーヒーで朝まで粘りながら机上でコントを作り、少し稽古をして、舞台に立つ。コーヒーは、一杯1400円のものを飲めるようにもなった。これは私が日々あくせくと働いてお金を稼げるようになったゆえのことなので、大変に誇らしい1400円である。変わったのは、そのくらいで、あとのことは、どうあがいても、変えられそうにない。
誕生日を迎える時、それが嬉しいのは「よくもまた一年いきのびたね、一年乗り越えたね」と自分を誇らしく思え、乗り越えられたのは紛れもなく周囲のおかげであると感謝することのできる機会となり、物理的に死のうと思えばいつでも死ねるわけで、否、死のうと思わずともいつ死ぬかなど分からないのに、死んでいたかもしれないのに、また一年、生きることができたことが、生きることを選択してきたことが、どう考えたって奇跡に思えるからだろう。
単独ライブも同じような気持ちとなる。「よくもまた一年芸人でいられたね」と自分を労ってやりたくなる。いつ辞めていてもおかしくなかったようなこんなボロクソ芸人が、こうして今年も板の上でふざけたコントをまだできていることが、支えてくれる事務所スタッフがいることが、それを見にきてくださるお客がいることが、会場を満席にしてくださることが、やっぱり、どう考えたって、奇跡に思える。
あなたが「今週末はヒコロヒーの単独だ」と思ってくれること、それがわくわくなのか、友人に誘われて付き合いでのものゆえにげんなりなのか、それは分からないが、「今日はヒコロヒーの単独だ」と思って一日の予定を大まかに立て、靴を履いて、家を出て、電車に揺られ、上野に到着し、Googleマップを見ながら会場までお越しくださること、それを、当然のことだとはいつまでも思えないだろう。
私は舞台の空間の半分しか作れず、空間の半分は客席の皆さんにしか作り得ない。だからもし、私の公演が良かったと思ってくださったのならば、それは、あなたが作ってくれたものでもあります。今年も満席にしてくれて、そこじゃないところでは笑わず、いいところでちゃんと笑ってくれて、良いお客でいてくれて、私らしい公演にしてくれたこと、本当に、ありがとう。
それから、ものすごく長くなってしまった何の有益性も持たないただの私の単独ライブ事情をここまで読んでくれているそこのあなたも、ついでにどうもありがとう。
面白いコントを作る芸人など掃いて捨てるほどいる世界で、それでも自分の舞台に来てくれること、ヒコロヒーのコントが好きだと言ってくれる意味、理由、そこに誠実でいたくて、私より面白いコントを作る芸人はたくさんいるけれど、私の作るようなコントや舞台を作れる芸人は私しかいなくて、そしてこれは、かなりイケてることをしていると思えて、というよりも、そこに自信を持てるように、やっぱり、自分を、自分のネタを、ちゃんと自分が信じられるまで、自信を持てるまで、しぶとく、しぶとく、作らねばならない。
まだまだできることもできないこともあれば、芸の世界では15年などまだまだ若輩者で、コントひとつとっても未熟だと痛感することはまだまだあり、その公演回のパフォーマンスの出来の良し悪しに一喜一憂することもある。しかしきっと完璧にできたと思える瞬間なんて気が遠くなるほど向こうのような気もしていて、でも、だからこそ、誠心誠意、自分のコント、ネタ、作るもの、そういうものに取り組み続けていき、良くも悪くも自分の今の全力がこれだと表明し、その評価も批判も責任を請け負っていってみたい。おもんななったな、と、言われても、自分だけは、いやこれがおもろいんや、と、自信を持てるものを、ぱきっと、作っていきたい。と、いうわけで、まだまだ努力し続けて参ります。
そうして、いつか、お客が来なくなり、人気が薄れたとしても、白鯨に戻るだけであり、まあ、飽きるまではやっていようかという気持ちになる。一杯200円のコーヒーで朝まで粘りながら机上でコントを作り、少し稽古をして、舞台に立つ。どんなにぐるぐるした思考を行き来しても、机上でコントを作る、ぐるぐるしたつまらない苛立ちも不安も悲しみも絶望も、ノートにコントを書きつけることでしか鎮静することはできないことをどうやら私は知っており、ペンは剣よりも強し、ああ、こんなの、朝起太郎師匠には、決して聞かせたくないことわざである。
今月のヒコロヒー
