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ヒコロヒー「直感的社会論」:あなたになら話したい。

お笑い芸人、ヒコロヒーの連載エッセイ第48回。「今月のヒコロヒー」も要チェック!

前回の「その人らしさは、本物でなければならない。」も読む。

text: Hiccorohee / illustration: Rina Yoshioka

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あなたになら話したい。

仕事の合間に少し空き時間ができたため、銀座にボールペンを買いに行った。涼しい秋晴れの真昼間で、こんな時間に外を自由に出歩くなんてすごく久しぶりのことで、街をのんびりと歩けることが嬉しくて少し泣きそうにさえなっていた。

自分のことはあまり人に話したくない。生活の忙しさを語ろうとしてもそれは私が「売れている」ことを語ることと同義になりかねず、仕事のことを語ろうともそれは私が「テレビや芸能界」を語ることと同義になりかねない。それってなんだか、アレな感じがしてしまう。

交友関係のことを語りたくともそれは私が「人脈」を語ることと同義になりかねず、好きなウイスキーの銘柄を語ることさえ私の「経済事情」を語ることと同義になりかねない気がしてしまう。

私が話したい出来事が言葉となって口から抽出された時点で、相手の受け取り方は相手次第であるが故にずれが生じることがあり、それはいかなるコミュニケーションにおいても不可避めいていることであるが、余計なことを言われてげんなりすることも、そういうことではないと釈明することも面倒臭い。

単純に今日がハードで疲れたと弱音を吐くことさえ、相手によっては「自慢げだ」などと思われることもあるだろう、さらに相手がよしなになろうとしている男性である場合なら、彼らのプライドを無駄に刺激して、むやみに自信を奪うかやたらと張り合われるかの二択となって煩わしい思いをするだけである。とにかく自己開示はしたくない。厄介なだけだ。

また、こうした自己開示に対する秘匿性の倫理観も人と自分がおよそ違うことも知っている。悪気がなかろうと他者の情報をるらるらと歌うように喋ってしまう人は多いものである。他者のプライバシーを重んじるという概念の違いか、線引きが緩いのか分からないが、自覚的でも無自覚的でもプライバシーというものを軽んじること、それがやや下品な行為であるという感覚の差異、また「知っている」ということに優越感を覚えているような人間としてのあわれさが垣間見えていけない。あまり他人のことは嫌いになりたくないものであるからして、自ら風呂敷を広げて嫌悪の粒を収集する必要はないだろう。

贔屓にしている文房具店でひとつのボールペンを買って、すぐに喫茶店に入りノートに書きつけてみれば書き心地がすごくよくて、お尻の辺りから喜びがぐわっと広がっては嬉しくてそのまま飛び跳ねそうになった。それから、ふと、この出来事を話したい、と、思って、はた、と、気がつく。

こうした些細な出来事を話したいと思うこと、そしてそう思える人がいること、それこそが人間関係における信頼であり安らぎである気がして、今日ボールペンを買った、というただそれだけの事実がどれほどの喜びときらめきを私に与えたかを知らせたい人、知らせたい思いそのもののこと、そしてきっとこの人なら私がボールペンを買ったことさえ誰にも言わないでいてくれるのではないかと思わせてくれていること、世界じゃこれを愛と呼ぶのでしょうかと山口さんに尋ねてみたくなる。

ボールペンを買ったことなんて絶対に言いたくない人もいるのに、なぜあなたにはこの喜びを伝えたくなるのだろうか。こんなにつまらないことは他の人には話したくない。あなたに話したい。それって信じてるってこと?それって安らぎがあるってこと?それとも甘えて期待しているってだけのこと?だったらそれってなんなわけ?まさか、愛してる?

一瞬の隙に飲み込まれそうで、脳を揺らすみたいに頭を振った。きっと将来の夫がいるとすれば、ボールペンのような話をしたいと思わせ続けてくれる人なのかもしれない。結婚記念日には毎年、いつもボールペンのような話をさせてくれてありがとう、と、私から妙な感謝をされるはめになるのだろう。

しばらくしてから、銀座にきた、ボールペンを買った、書き心地がよかった、と、メッセージを打ってみる。宇宙一しらんがな案件のこれにすぐさま返信がくる。それを見て、ああやっぱりこの人に話してよかった、と、やっぱり、泣きたくなった。そしてこれを、BRUTUSの連載に書きたいと思ったのはどうしてだろうか、連載を楽しみにしてくれている人々への、信頼、安らぎ、それもやっぱり、やや愛めいているだろうか。

今月で36歳になる。ささやかな幸福に生かされることばかりの私は、ささやかな不幸に殺される可能性もあるということを嫌というほどに自覚している。おめでとう、と言ってくれて、ありがとう。いつまでヒコロヒーと呼ばれる人生を歩むことになるかは知らない。いつだって終わらせることもできる。ただ私は私が歳をまたひとつ重ねることがとても嬉しく、幸運なことだと心から思っている。

人生は終わる、泣いても笑っても終わることは決まっている、きっとこれから皺は増え、白髪も生え、時代の真ん中の感覚についていけず、足の動きも疎かになっていき、視力も奪われ、そうして、あっという間にこの身体で過ごす日々は終わっていくのだろう。その間に、どれほどボールペンのような出来事と、ボールペンのような出来事の話をできる人に、出会えるだろうか。掬い集めていくように、残りいくらほどあるかわからないこの日々の、ささやかな幸福を見つめていきたいなんて、ちょっとやかましいし、とりあえず今夜はあのウイスキーでも飲もうかね、あのウイスキーのことも、あなたにだったら、話したいしね、などと思う、10月のことだった。

今月のヒコロヒー

ヒコロヒー
photo/Asami Minami

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