その人らしさは、
本物でなければならない。

通う喫茶店のママがいる。ご年齢は定かではないが推測するに75歳は超えているだろう。艶やかではないが黒々としたボブヘアに、いつも女性らしい、否、女性らしいというよりはやや少女らしいワンピースやシューズを身にまとい、爪の先までマニキュアをきっちりと施している。
ママはとてもキュートだ。常に笑顔で「いらっしゃあい」と高い声で迎えてくれ、私の吸い殻がいっぱいになった灰皿を見つけると「やあだあ、私ったら気がつかなくって!」と自分の頭を右手でぽかんとぶつ。他に客がいぬ時などに会話をすれば、カウンターに両肘を置き、顔を両手で包み込むようにして上目遣いで「うんうん」と聞いてくれ、たまにこっそり私の元へ駆け寄ってきては右手からクッキーを差し出し「ほかのお客さんには内緒だゾ!」と舌を出す。みなさんお気づきの通り、白目を剥くほどブリッコなのである。ブリッコに年齢制限などないことを感じさせられる。そして私は、この手のブリッコな女が大好きなのである。
ブリッコの女はいい。ひと昔まえはブリッコなど嫌われたものだったが、ブリッコは最高なのだ。なぜならとろけるほどに可愛い。ブリッコ風に佇む女も稀にいるが、本物でなければならない。ブリッコには裏も表もあってはいけない。性根がブリッコであることが真のブリッコなのである。
通うスナックのママにはこのような人物は殆どいないと言っても過言ではないだろう。特に私がよく通うスナックのママはいつも派手なアクセサリーを身につけ、赤と紫の間のような紅をさし、重たそうな着物の帯をぴっと締め、オールバックに固めた前髪が崩れていないかを気にしているその指先は爪というよりほとんど刃物に見えるほど長く尖っている。
それでいて私と同じくらい、もしくはそれより低い声で「今日あんま飲まないじゃん、なんでよ」と早口で詰め寄り「ああ兼八きれてっわ、中々でいい?」と雑に言う。両手で顔を覆うなんてもってのほかで、たいてい腰に手を当てるか腕を組むかしながら鬱陶しそうな顔でタバコを吸っている。それから「ちくわ揚げたのあるけど食べる?いらねえか」などとこちらの返答を待たずに勝手に喋っている。クッキーなど甘く見積もっても30年ほど見ていないだろうと非常に勝手ながら思っている。そして私は、この手の雑把な女も大好きなのである。
雑把な女はいい。ひと昔前は雑把な女など嫌われたものだったが、雑把は最高なのだ。なぜならとにかく面白い。雑把風に佇む女も稀にいるが、本物でなければならない。雑把には裏も表もあってはいけない。性根が雑把であることが真の雑把なのである。
前述した喫茶店ママの笑う時の音は「うふふ」でありスナックママは「ギャハハ」である。喫茶店ママはお土産を渡すと「きゃあ、ありがとう!」と満面の笑みで言いスナックママは表情変えずに「あら悪いねいつも」と言う。髪を切ったんだよと伝えれば喫茶店ママは「かわいい!とってもかわいいわ!」と嬉しそうに言ってくれ、スナックママは「ばあさんには何が違うか分かんないわよ」と吐き捨てる。全く違うこの二人が同時にこの世に存在してくれており、その両方を享受できることに感謝さえしたくなる。つまるところ、その人の持つ魅力というものは、真のその人らしさという点にしか終始しないということだ。
ブリッコが真ならブリッコが美しく、雑把が真なら雑把が美しく、きっと歳を重ねれば重ねるほどに、らしさというものが放つ輝きはえげつないものになるのだろうと、それを見くびってはならないのだろうと思わせてくれる、75歳を超えていそうな二人の女性がとても眩しい。二人ともとても変人ではあるものの、のびやかに自身を生きているそのさまが素敵である。
今まさに喫茶店ママのもとでこの原稿を書いているわけだが、私が「ママちょっとつかれたわ」とこぼせば満面の笑みで「おつかれさまあ!今日はバタンキューだネ!」と言われた。バタンキューときた。可愛すぎるではないか。なんやねんバタンキューって。バタンもかわいいしキューもかわいい、こんな言葉を咄嗟に選べるあんたはすごいよ。そして、この原稿を終わらせたらスナックママのもとへ行ってみようと思った。スナックママに「今日はわしバタンキューよ」と伝えてみればどうなるだろうか。よもや無視さえされそうである。
今月のヒコロヒー
