人生とは。なんて。

ある秋が過ぎた頃、久しぶりに友人のよっちゃんと会っていた。
よっちゃんとの出会いは学生時代だが、学友でもなんでもなく、たむろしているスーパーが同じだったことでお互いを意識し合い、ある日ゲームセンターで私が友人とプリクラを撮っていると外からカーテンの部分をバンバン叩いてきて「はよせえや」と妨害行為をしてきたのがよっちゃんだった。互いに血気盛んだったためそのまま口論となりスムーズにつかみ合いの喧嘩に発展したわけだが、他校の野球部の先輩たちに難なく止めに入られ、その止めに入り方というのも「やかましいんじゃブスがぁ」というもので、血気盛んなくせに思春期だった私たちは一応すごく傷ついていた。あの時の野球部の先輩たちに前言撤回してもらえる日を今も心から待ち侘びている。
当時はそんなつもりは毛頭なかったが、思い返せば小さな田舎で私とよっちゃんは「不良」だったのだろう。学校にろくに行かず、授業をさぼって公園や人気のない喫茶店によく行ったり、あるいは裏山へ行って自転車でチキンレースをしたり、ネットカフェで「スラムダンク」を読んだり、公園のトイレで制服から私服に着替えて映画を見に行ったり、本当にただそれだけのようなことをしており、他に一定数いた「ほんまもんのワル」には特に憧れることはなく、授業がだるい、とか、クラスに嫌なやつがいる、とか、そんな些細な理由でよっちゃんを含む何人かでよく集まっていた。そういえばあの頃の私はブラックコーヒーは飲めなくて、髪と制服が臭くなるという理由でタバコも嫌っていた。あの頃の私はいったい誰だったのだろうか。
私はよっちゃんが普通に好きだったが、よっちゃんの男癖の悪さには呆れていた。美形な女子に男子が群がることをいいことに、よっちゃんは本当に好き勝手なことをしていた。それが原因で彼女がある年上の女子から呼び出された時、なぜか私も呼び出されて一緒にシメられたわけだが、よっちゃんはその時にその女子に向かって「大根そのまま埋め込んだみたいな太い足じゃがぁ」と言い放って3倍シメられていた。目の前で女が女に重たいビンタを何発も食らう姿は、どういうわけか、腹の底から笑えたものだった(それによって私も重いビンタを食らうはめになった)。
それから私は大阪へ引っ越し、芸人を志し、東京へと引っ越した。よっちゃんは早々に結婚し、たまに実家に帰ると年賀状が届いている程度の関係になっていた。それがひょんなことから、よっちゃんから東京に行くけん会いたいと連絡が入り、久しぶりに会うことになったのだった。
金でも貸してくれと言われるのかと思ったが、私たちはただ新宿の喫茶店に集合して他愛もない会話をしていた。今や立派に3児の母となったよっちゃんはとっくにタバコをやめ、まだ授乳中だからとオレンジジュースを飲んでいた。子どもの写真や動画を幾つも見せてくれ、「かわえかろう」と、笑っていて、その表情に確かに皺は増えたけれど、引っ掻いたようなえくぼは変わっていなかった。「私なあ、覚えてることあるんよ」と切り出した彼女は、その昔に数人で『チャンスの神様は前髪しかない』の話をしていた際に、私が「神様めっちゃ変な髪型ってこと?」とよっちゃんに尋ねたというものだった。私は覚えていなかったが、私なら言いかねないし今もそのことわざの意味がわからない、と告げると、よっちゃんは大笑いしながら「アンタあんまり変わらんね」と言ってくれた。言っていた、のではなくて、言ってくれた、と、どうして思ったのかはわからない。
よっちゃんの家庭のことや、私の仕事や生活のこと、私の最低だった日々の話、よっちゃんの最高だった日々の話、新宿駅の地方民への配慮のなさについてや、よく一緒にいた仲間のうちの一人が新興宗教にハマっているらしいなどというくだらない話をしているとあっという間に私の仕事の時間がきてしまった。
喫茶店を出て、私がタクシーを拾いながら「この後どうするん?」とよっちゃんに尋ねると「なんもないんよ」と言い「新宿って何があるん?」と尋ね返されたので「歌舞伎町のカラスくらいは見て帰ったらええかもなあ」と伝えた。「またね」「また会おうな」と言って、私はタクシーに乗り込み、よっちゃんもありがとうと言って私に手を振って、それからよっちゃんが死んだと聞いたのはその少しあとのことだった。
それから一定以上の時間、というか、期間、が、経った今、見ないようにしていたものに心が向くようになってきていることも、また、どうしてだかわからない。かといって、彼女の死生を美談めいたものにしようとか、それについての自分の気持ちを書き綴っておこうとか、それによって彼女の死そのものをメメントモリ的な読み物にしようとか、そういう類のことにはあまり興味がなく、ただ、彼女が彼女として存在していた人生のなかで、私がたまたまそこに登場できて、そうして交わったほんの少しの時間を、筆圧太く、書き付けて、世の中めいたものに知らしめておきたくなっている。
人が死ぬとか生きていくとかいうことについて私は講釈を垂れたくはないし、あんまりよくもわからない。起こる出来事をわざわざ退廃的に捉えることにも飽きてしまったほどには年齢も重ねている。ただ、ひとつだけ、もうよっちゃんとは会えないことだけがこの人生で決まってしまった。あんまり会ってなくても平気だったくせに、思い出すことだってあんまりなかったくせに、決まってしまうと悔しい気持ちがわいてくるのだから、私だってひどく勝手なものである。
人生とは、などと、生きている人間がなにをどう言葉にしても、生きているのだから、語れっこない。あんなものを語りだすのは衣食住が満ちた上での暇な証拠で、人生とは、なんて、岩波文庫にまとめられて語られるような大げさなものでなく、なんでもないものなのかもしれない、と、やや思っているし、それは、今思っているだけなので、来週の私のことは知らないが、とにかく、さっと生まれてさっと死ぬ、桜よりは椿の花びらのほうが腑に落ちるのは、ぼとりとやや重さを伴った一枚だけが地面に落ちてしまうように、慎重に小枝にくっついていそうなくせに微かな風であっという間に散らばってしまうように、本当にただそれだけのことなのかもしれないと感じているからかもしれない。そしてこれもまた、使い古された花なんかを用いて人生なるものを語っていることになっているのだから、褒められたものではないのだろう。
ただひとつ、あんなに愛していた3人の子どもに会えなくなることよりも、いなくなることを選んだよっちゃんの気持ちを、誰が否定できようか。誰がジャッジしてよかろうか。などと思えば、いなくなってしまったけれど、なんでやねんのひとつくらい言ってやりたいけれど、よっちゃんという人間は確かにそこにいたわけで、確かにそこにいたよっちゃんが、確かに選んだことの、その全てを尊重してやりたいと思う。よくやったね、と、労ってやりたいし、えらかったね、でも、あほやね、と、笑ってやりたいと思う。
ベルトコンベアに乗せられたみたいにして時間だけは自動的に進んでいく。それはいささか楽なことでもあるけれど、ときどきすごく容赦がない。私たちは好き好んでこの世に誕生したわけではなくて、生まれるかどうかもこの意思では選べなかったし、生きることを終える瞬間も当然ならばきっとまた選べないのだろう、結局は宮﨑駿、私たちは結局宮﨑駿、君たちは、否、私たちはどう生きるか、なのであるのかもしれない。そういえばいつかみんなで好きなジブリ作品の話をしていた時に、私が「紅の豚」が一番好きだと言うと、よっちゃんは「あれが一番おもんない」と言ってきたことがあった。よく考えると要らんことも結構言ってくる女だった。
ではよっちゃんは何を一番好きだと言っていたか、「魔女の宅急便」だった気がするし、トトロだった気がするし、やっぱり何も覚えてない気がする。『平成狸合戦ぽんぽこが好き』と言って幼い感性だった私たちにイジられるはめになっていたのは岡田だった気がするし、岡田のことなんて今は何も思い出す必要がない気もする。
それから、よっちゃんの好きなミスドはエンゼルフレンチで、好きなアイドルは山Pだった。「青春アミーゴ」をえりかさんと二人でよく歌っていた。というか、カラオケが本当に好きだった。カラオケでは松田聖子は喉のために牛乳を飲んでいるらしいという話をよくしていて、コーラを飲むと声が出なくなるからという理由でカルピスを飲んでおり、カラオケで靴下を脱ぐ私の行為を嫌っていた。あの頃のよっちゃんはお団子のヘアスタイルをする女子をバカにしていた。私もしていた。
私たちは髪を染めて長いエクステをつけてイカしたギャルぶっていたが、今見返すとアルフィーの人みたいにしか見えなくて、きっと私たちのほうがよっぽどバカにされていた。最後に会った時のよっちゃんはセミロングに金髪のインナーカラーを入れていた。そしてオレンジジュースをちびちび飲みながら「覚えてることあるんよ」と言った。チャンスの前髪の話をした。ピカデリーの前で私に手を振った。歌舞伎町のカラスは見たのだろうか。
そんなふうにしながら、彼女は与えられた時間を過ごした。ただそれだけなのだろう。私の知らない時間も含めて、きっと、ずっと、懸命でも懸命でなくとも、きちんと過ごしていた。そしてそれは、おかしな話かもしれないが、褒めてやりたいことに思う。時間を過ごすということは、ベルトコンベアだけれど、ベルトコンベアのくせに、本当は一番大変で、一番つらくて、一番くるしいことにもなり得ることを、私もそれなりに知っているつもりではある。
だけど、できればもう、私の周りにいる人たち誰一人として、もう私に会えないことを、勝手に決めてほしくないと思ったりもして、尊重したいだなんて声高に言っておいて、あれだな、とも思う。この夏が終われば、もうすぐ、あの秋の終わりもやってくるから、そのたびに、あれだな、と、思うのだろうし、私にだって覚えてることもあるまま、もしかしたら忘れてしまうこともあるのかもしれないが、私はといえば、これから幾つもの秋の終わりへと、容赦なくベルトコンベアで向かわされていくのだろう。
宮﨑駿へ。
やっぱり違う気がしてきた。どう生きるかなんて二の次で、私たちはとりあえず生きる、ただ生きる、生きることで生きていく、どう生きるかなんてほっといてくれ、そんなんもう言わんといてくれ、どう生きるかなんかもうわからんねん、どう生きるか、みたいな目線づけはちょっともうだるいて、もう怖いねん、もうええやん、生きてるだけで、もうええことにしといてくれへんかな、君たちはどう生きるか、ではなく、私たちはただ生きるけんええやん、に、しといてくれへんかな、生きる、というか、過ごす、ってことやん、生きるとかそういう大げさにして、怖なんねん、1時から3時まで過ごす、とか、そういうささやかなこと繰り返してることだけでええやん、偉いやん、立派やん、そういうムードでいこうや、でも「紅の豚」は、めちゃくちゃ面白かったし、あれはよくやったと思うねん、私は一番すきよ、でもよっちゃんは一番おもんない言うてたわ。ドンマイ。ほんでここに書いてることは全部嘘です。ばいばい。
ヒコロヒーより。
今月のヒコロヒー
