私の野原は、
一体誰のための
ものなのか

誰かが私を形容する時「さっぱりしている」とか「男脳である」とか「おじさんのようだ」などと言われることがある。私はそのどれもがしっくりこないし「男っぽい」と褒め言葉のように言われるのはなぜだろうかと考えるのは、決してミソジニーやミサンドリーを含むフェミニズム論を語りたいわけではなく、純粋に疑問なのは、なぜなら私は0歳から生物学的にも精神的にもキチッと女をやらせていただいているからである。
誰かが私を「お前は男脳よな」と評する時、その人が含むニュアンスには賞賛が帯びる。誰かが誰かを「あいつは女っぽい」と評する時、どこか揶揄が滲む。と、いうのは世界の「一部」で嘲笑の的にされているような「フェミっぽい」発言になるのだろうか。まあそういった「一部」の感性はどうだっていいとして、なぜならハリソン・フォードもハリー・スタイルズも自身をフェミニストであると明言しているという「一部」の後ろ盾を私も勝手に使用させていただいて、時々、そうして性別を纏うさまざまな言葉に動揺することが、私は、まだ、まだ、ある。
例えば私が食事の席で出てきた珍しいトッピングの美味しそうなピザに興奮して写真を撮る時、男の人は「女の子だねえ」と満足げにする。例えば私が恋愛について浮かれる時、女の人は「めっちゃ乙女じゃん」と微笑ましげにする。例えば私が何かに悩んで泣く時、誰かは「女っぽいとこあるんだね」と感心のような、はたまた心配とも捉えられるような、不思議そうな表情を見せる。
いや、ずっと普通に女やねんけどな、と、内心思うが、彼ら彼女らの中で私に対する印象と異なっていたための何気ない言葉であることも十分に理解できる。男っぽくありたいわけでもなし、女っぽくありたいわけでもなし、ただ初期設定から女性としてある自分が素敵だと思うことや好きなことやこの感性に素直に生きていきたい時、それらのジャッジメントめいた言葉は、両手を広げてダイブできるような大きなわけのわからない野原で気ままにでんぐり返ししてぐるぐる転がっている際に、ふと矢印付きの看板を打ち立てられ、それに身体がぼんとぶつかり、ああ矢印の先に行ったほうがいいの、か、な、と、思わず視線の先が変わるような、そんな感覚になっていく。
誰かの何気ない言葉はそうして杭となり看板となり矢印となり、もちろん自分が誰かの野原に知らずのうちに看板を設置してしまうことがあるやもしれぬが、そんなものは知ったこっちゃないと我が野原に知らぬ間に刺されていた誰かしらのお手製の看板の根っこを持ってずぼっとひっこ抜いてどこかへぶん投げてしまうことができる日もあれば、その打ち付けられた杭に言い得ぬ虚しさを感じて、ただ眺めてしまう日もある。
私の野原は、一体誰のためのものなのかと、不特定多数の人間に見ていただく立場である以上、私だけの野原というわけにはいかないのに、私だけの野原で最低限に守りたい面積はどのくらいだろうかと、この例えに野原やでんぐり返しが出てくる自分がいかにも四国で生まれ育った趣がして、少しだけ、故郷の、ともに山に転がっていただけの、私を下の名前で呼ぶ、なんでもない友人に会いたくなり、ふと連絡してみると「高知でサーフショップをやりだしたユウヘイが客と不倫しているそうだが、実は嫁も別の客と不倫しているらしい」という噂話を2時間聞かされて終わった。
今月のヒコロヒー
