正月になってテレビをつけると華やかな着物や袴を身に纏ったタレントたちが新年を迎えたことをにこやかに祝う。お決まりの日本の茶の間、それについて無感情だった時期のことはとうに覚えておらず、いつからか、私はその光景を有感情で眺めるようになっていた。しかしこの「有感情」というものの内訳を言語化しきれるはずもなく、なんとなく胸のどこかにぽつんときのこが生え出したような感覚であった。要は陽あたりがあまく、湿気を帯びていたのだろう。
20代前半頃から、そのきのこは急成長を遂げる。お金もない、仕事もない、地位も名誉も愛嬌もない女が一人、部屋で正月をテレビをつけて過ごす。生まれた頃と変わらぬような晴れやかな演出と祝い言葉の応酬。私はようやくそのきのこの栄養素に気がついてしまった。テレビに映し出された、誰か分からないタレントが「新年!」と言い、次にまた誰か分からないタレントが「あけまして!」と言い、その次にはもっと誰か分からないタレントたちが束になって「おめでとうございます!」と言い放つ。その瞬間、私は、いや誰やねん、誰が正月のこと祝ってんねんと思ってしまったのだった。誰かは分かっているのだ。正月にテレビにいる人間なのだから誰か知っているのだ。むしろ彼らだって正月にテレビに来ておいて「すみません、自分、祝わないですわ」と正月をスカすことなどできるわけがない。それでも、正月を祝う彼らをどこかすごく厚かましく思えてしまったのだ。
それから10年近く経ち、今ではそんなもん誰が祝っていようとええやろと、新年はフリー素材みたいなもんや資格いらんねん、と思うようになっている。なぜあの時の私が違和感を持ち、嫌悪感を持っていたのかも上手く言い表せない。あまつさえ今では私自身が綺麗な着物を着てテレビで新年を祝っている。しかし、体のどこかにあのきのこはまだある気がしている。見えなくなったけれど、隠れているような、ずっと根は生やしているような、そんな気がしている。このきのこの行く末はなんなのだろうか。人様に美味しく食べて頂こうなどという可愛げを持ち合わせぬ、ただそこにぽつんと生まれたありし日のきのこに思いを馳せた新年であった。
ヒコロヒー「直感的社会論」:正月にテレビを見ながら思い出したあの違和感
お笑い芸人、ヒコロヒーの連載エッセイ第19回。前回の「損得勘定で態度を変えること、について 考えてみた」も読む。
text: Hiccorohee / illustration: Rina Yoshioka