「かわいがって頂いている」という言葉に対して違和感を抱くようになったのはいつからだろうか。名もない人間が名のある人間の名前を掴んで「“名のある人間”さんにかわいがって頂いてます」とはよく聞くもの。そこには虎の威を借るという理屈はもちろん存在しているのだろうが、私が興味を持つのはそのようなことではなく、それを堂々と発言している人々の無邪気さのようなものである。
名もなき若い人間が「大御所さんにかわいがって頂いている」と述べる場合、そこに透けて見えるのは自分は大御所さんのような立派な方に理解され、認められ、愛されているというある種の表明めいたものだ。しかしそれをそのような腹でやっている人とそうではない人、これは確実に二分されるが、私はそのどちらともが共通して無邪気であり、その所在が異なるだけである気がしている。
前者の場合、私はどうにも彼らはある意味で割り切っているように見える。「かわいがって頂いている」という言葉に含まれるメリットを自覚的に用いて、周囲の「あいつまたあの人の名前出してるよ」という視線は厭わず無邪気に自身のアピールを遂行している。もちろんそんな視線にさえ気づかず周囲が「へえすごい」と鵜呑みにしていると信じている場合もあるだろうが、それもまた無邪気なのだ。
後者の場合、それを発言することで自身がどう見られるかは理解しきらぬまま心から「かわいがって頂いている」と信じきっている無邪気さだ。
彼らはイノセントワールドの住人である。名前を出された側のことなど常に無視して主観に素直なのである。私は住人に出会うたびにその心根に脱帽し、ひれ伏し、私の名前はどこに行っても出さないでほしいなあと笑ってしまいながら願ったりするのである。