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ヒコロヒー「直感的社会論」:なんでもかんでも、「尖っている」の一言ですませる雑さや横着さ。を指摘してもわからない人たち。

お笑い芸人、ヒコロヒーの連載エッセイ第6回。前回の「実体のない“ランキング”とやらに固執する、顔の見えない大人たち」も読む。

Text: Hiccorohee / Illustration: Rina Yoshioka

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なんでもかんでも、「尖っている」

の一言ですませる雑さや横着さ。

を指摘してもわからない人たち。

ヒコロヒー「直感的社会論」

尖っている、という言葉がある。私自身、この芸歴のほとんどに付き纏ってきた言葉である。

ことあるごとに「尖っている」と言われ、言われ続けてきたゆえか分からないが、私はこの言葉の抽象性がひどく苦手である。あなたが他人に「尖っている」と言い放つとき、それはどんな感情だろうか。私には内訳が多く孕まれている言葉のように思えて、その中の分類や言語化を話し手が怠っているような気になるのである。

例えば挨拶が不出来で無礼なことを「尖っている」と評するのであれば、それは「尖っている」のではなくて「無礼である」ということである。あるいは披露しているネタが前衛的で大衆的ではないことを評するのであれば、それは「ネタが前衛的である」と評するべきであり、受け手に要らぬ憶測を与えぬ方がよろしいかと考える。

さらには楽屋であまり他者と口をきかないことを「尖っている」と評するとすればそれは「暗い」であるし物事の考え方が逞しいのならば「芯がある」と言ってしまえば良いのではないだろうか。内訳を明確にすることを怠り、どこか聞いたことのある言葉一つで他者を評することを許しているその人自身の表現に対する横着さに対して、私はどこか穿った見方をしてしまう。

もちろん、誰もが忙しく、自分に精一杯な社会である。いちいち丁寧に自分の考えや感情の内訳を明確にして相手に放り投げ続けることが難しいことも承知の上だ。


しかし私は、目の前の相手が考え、思っている事が何なのかを常にきちんと知りたいと願うようにして思っている。使いやすい言葉を用いて何かを裁いたり評したつもりになることなく、それを発するのであれば、その詳細を明らかにしておいてほしいと考えることもまた「尖っている」のだろうか。

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