「私はあなたにとって脅威となる存在ではありません」と、やすやすと他人に思わせられる人にとって、渡る世間はやさしいのかもしれない。
当然のことではあるが、人は自分を脅かす存在に触れることを快くは思わない。そこには恐怖と不安が付き纏い、フォルダの少ない人間なら憎悪という感覚と一緒くたにしてしまいかねない。そこで快適に社会を生き抜くためにある一定数の人々が実践しているのが、自分はあなたにとって無害である、という高らかな表明ではなかろうか。
大なり小なりあらゆる組織で構成されている社会において、そんな場面を何度も見てきた。
例えば働いていた水商売の店にいたのは若くて美しい新人が入ってくるたび口調がきつくなるお姉さん。新人はいつからかお姉さんがいる時にかぎって大げさな自虐を放つようになっていた。
例えばどうにもならないような若い漫才師には優しく、芽の出そうな漫才師にはやたらと厳しい先輩。後者はいつからかその先輩に過剰なまでのおべっかを言うようになっていた。
脅威を感じる存在に触れた瞬間にみ漏れてしまうその人の本質と、敵対視されぬため自分は脅威になり得ませんと自己演出していく若い人たち。自分を脅やかさない程度の有能さを持つ人間のことだけを称賛する一部の上の人たちと、無視できぬほどの脅威的な能力を持っていると踏めば自分のもとに囲って上下関係なるもので感謝されようとする人たち。
能力があり、魅力がある人というのは、他人の劣等性を刺激してしまいがちなゆえに、かなしいかな好かれがたいのかもしれない。それどころか、その脅威性への恐怖や不安を集団で共有し纏めたもので攻撃されたりもしている。出る杭は打たれるのだと諦めることを、一定数の人たちは今後もしていかなければならないのだろうか。
諦めなければならないのは本当はどちらなのだろうかと考えたりすることがある。そしてその先に待っているのは、その組織なり社会なりの先細りだけなのではないかと、別に誰にも特に脅威だなんて思われていない幸運かつまぬけなこの身でゆらゆらと考えるのである。