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ヒコロヒー「直感的社会論」:摩擦を避け、安牌を切る。その気遣いはもはや誰が為に?現代礼儀考

Text: Hiccorohee / Illustration: Rina Yoshioka

摩擦を避け、安牌を切る。

その気遣いはもはや

誰が為に? 現代礼儀考。

以前ある場面で「目上の方から要らぬお菓子を渡された場合に、受け取るか否か」という話になったことがあった。その場にいた多くの人は「要らぬとも頂戴することが礼儀であり常識である」と話し、私はひどく感心した。なぜなら私は要らぬお菓子なら心から要らぬので、お断りするたちであるからである。

「要らんなあ」と思いながら受け取るほうが失礼な気がし、私は受け取りませんと言い放てば、若い子はこれなのだと、当方31歳になるいい大人なのだがそのように驚かれたことがあった。

私にはそういった公約数的な常識や礼儀がわからないふしが多々ある。この「わからない」とは無知であるということであり、理解していないということであり、納得もできていないということである。

例えば目上の方とお話しする時に足を組んではいけない理由も本当にわからないままでいる。無礼だという意見は承知の上で、それよりも対個人で話す機会において「話す」ことが最も重要であり、それ以外のことは無関係である気がしている。ただもちろんそれが大変に独りよがりな見解であることは理解しているので、いちおう表面的には常識的な行動を心がけているつもりであるが、本当のところで言えば、そんなんどうだってええがなと心から思ってしまっている。

無論、目下の人間と話す場面において相手に足を組まれようが腕を組まれようが煙草を吸われようが厭ったことなどなく、どうだっていいのである。それよりも、妙に畏まったり気遣いにばかり気を取られて「話す」ことから気が逸らされるほうが、何がしたいねんと疑念に囚われてしまう。

ほとんどの人間が「わかる」ことを「わからない」と表明するのはどうにもみっともなく、礼儀というものが基本的に美しいことも知っているつもりではある。しかしやはり、その場面において最重要な目的を果たすためにはさほど気にしなくてもよい時もあるのではないかと疑いつつ、けれどこれ以上世間とやらからはみ出すことも煩わしく鬱陶しいために今日も付け焼き刃の常識をへたくそに被っていくのである。