「マウントをとられた」と嘆いたり憤ったりする女たちがいる。
彼女たちは喫茶店で、あるいは居酒屋のカウンターで、はたまた現場で、マウントをとられたと解釈した出来事を事細かに説明してくれ、私はそれを唸ったり笑ったり、共感したり共感できなかったりしながら聞いている。
ある独身女性は、恋人のいる女性に彼氏の愚痴を聞かされることを「マウント」と呼び、ある専業主婦は、働く女性に仕事の多忙さを説明されることを「マウント」と呼び、ある女性芸人はグラビアアイドルにアクセサリーをプレゼントされたことを「マウント」と呼んでいた。
「マウント」とは相手が故意に優位性を誇示することによる「攻撃」である、と私は解釈しているが、必ずしもそうとは限らないらしい。何の悪気なく放たれた一言でも自分の劣等感が刺激されればそれはたちまち「マウント」となる。
「あの子にマウントをとられた」という言葉から紐解けるのは「あの子」の悪意の所在ではなく、その言葉を発した「その子」の劣等性である気がしている。かのニーチェはこう残している。事実など存在しない、存在するのは解釈だけである、と。
私自身はといえば「マウントをとられた」という事象に関してひどく鈍感である。定義こそ理解していれど、そもそもが劣等者であるという自意識がゆえに嘆きも憤りも生まれようがないのである。第三者から「ヒコロヒー今めっちゃマウントとられてなかった?」と心配されたり半笑いでからかわれたりすることは茶飯事であり、そのたびに「えっそうなん」と時差でショックを受けるはめとなる。
逆さをとればこのようにしてマウントに疎い女は、知らぬところでマウントと解釈されてしまう言動を取っている可能性もあるのではないかと肝を冷やすような気持ちにもなるが、いや誰も私に対して劣等性を刺激されたりすることはないかと安堵しつつ、いや色んな人がおるもんやぞ、とやはり帯を締め直す。
「言葉」は磁石のようなもので、言語化できぬ曖昧な感情は一つの言葉のみに吸着されてしまいがちである。あれも、これも、それも、どれもが「マウント」に終始しかねない現代において、受けには鈍感に、攻めには敏感にしてなんとかサバイブしていきたい。