モーツァルト
ヴァイオリン協奏曲第5番 イ長調 K.219
ハイフェッツのモーツァルトは、一般的にとくに高い評価を受けているわけではない。たしかにこの人のいくぶん緊迫した鋭角的な音色は、モーツァルトの音楽の持つ自然な包容力(みたいなもの)には今ひとつ馴染まないかもしれない。彼の活躍した時代には、そんな硬質なモーツァルトのあり方も評価されたのだろうが。しかし何はともあれ一世を風靡した人だけあって、隙のない見事な演奏だと思う。
エルマンのエヴェレスト盤(疑似ステレオ)は、中古屋の100円コーナーで見つけた。ヴァイオリン奏者の思い入れがそのまま弓に乗り移ったかのような、「情熱満載」の個性的な弾きっぷりだ。
音も演奏スタイルも ーハイフェッツとは違う意味合いでー 今から見ればかなり古風だが、そこにはそこにしか見当たらない味わいがある。古き佳き時代の揺るぎなき世界観、とでも呼ぶべきものが。
フランチェスカッティが目指しているのはハイフェッツとは対照的に、愛らしく美しいモーツァルトだ。高度な技巧は技巧のためではなく、あくまでそのような特質を高めるために供されている。
フランチェスカッティの演奏するモーツァルトの協奏曲はワルターと共演したものが高名だが、チューリッヒ室内管弦楽団と組んだこの盤は、オーケストラがこぢんまりしているぶん、独奏者の心持ちがより近しく感じられるかもしれない。美しい演奏だが、ただその歌い回しにはどうしても「オールド・スクール」の匂いがあり、そのへんで好みが分かれるだろう。
マゼールは3番でも取り上げたが、この5番の演奏は打って変わってキレが良く、鮮やかだ。前3者(ハイフェッツ、エルマン、フランチェスカッティ)に比べると、驚くほどきっぱり「近代化」されたモーツァルトがそこにある。
ヴァイオリンはやはり時として「線が細いかな」と思わせるものの、ここでは表情の豊かさと律動の確かさがそれをしっかり補っている。オーケストラともぴったり呼吸が合って、上質な演奏が成立している。才人マゼールの面目躍如だ。
グリューミオはコリン・デイヴィス/ロンドン交響楽団と組んでモーツァルトの協奏曲全集を吹き込んでいるが、この顔合わせは成功しているとは言いがたいのではないか。どれを聴いても、音楽の運びが妙にてきぱきしすぎていて、グリューミオの美質(気品ある落ち着き)がうまく活かされていないように僕は感じてしまう。
熱のこもった質の高い演奏だと思うが、どことなく「らしくない」のだ。
王道をいくオイストラフ、3番の演奏は素晴らしかった。しかしこの5番に関しては今ひとつ精彩を欠いているように思う。演奏に欠点や落ち度はないのだが、強く心を惹きつけられるものも見当たらない。なぜだかはわからないが、何度聴き返してもその印象は変わらない。