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映画監督・濱口竜介が、フレデリック・ワイズマンを観る理由

精神科病院、高校、動物園……。ドキュメンタリー界の“生ける伝説”ことフレデリック・ワイズマンは、50年以上にわたり、こうしたさまざまな“場所”を観察するドキュメンタリーを作ってきた。そんなワイズマンを敬愛する映画監督の濱口竜介さんに、ワイズマンや最新作『ボストン市庁舎』の魅力を聞いた。

Text: Keisuke Kagiwada

ワイズマンのドキュメンタリーの楽しさは、観客に観察しながら想像するという体験を与えてくれるところにあると思います。ほとんどの作品は病院や動物園など場所や組織がテーマになっていますが、まずそれがどういう場所なのかよくわからない状態が続く。

それはワイズマン自身がリサーチするように撮り、「ここはこういう場所なのか」と理解していく過程が、編集で再圧縮されて提示されているから。それを観ながら観客は想像力を作動させ、ワイズマンの理解への過程を追体験できる。これほど楽しいドキュメンタリーってなかなかないんじゃないかと思いますね。

その意味で、ワイズマンの特徴として知られるナレーションやテロップを使わないという戦略は、圧倒的に正しい。そうしたものを入れてしまうと、この想像力を作動させる楽しみが潰されてしまうので。

映画監督・フレデリック・ワイズマン
フレデリック・ワイズマン(映画監督)/1930年アメリカ・ボストン生まれ。67年、初の監督作『チチカット・フォーリーズ』を発表。以後、ほぼ年1作のペースで作品を発表し続けている。近作に『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』など。photo by Wolfgang Wesener

ワイズマンが扱うテーマには、社会的なものが多くありますが、彼自身がそうしたテーマに倫理的な関心を抱いているかは謎です。

例えば、精神科病院を映したデビュー作『チチカット・フォーリーズ』は、たしかに社会的なテーマですが、それ以上に観客が興味を持ちそうな“事件”が起こり得る場所を選んでいたように感じます。
その後、ただ仕事をしている人の姿も細分化して撮れば“事件”を目撃したような感覚になれると気づいたのか、そういう方向性の作品が増えていくのですが、それがまた変わるのが2000年前後。

“スピーチする体”。
新しい被写体の発見。

それはインターネットの台頭によって、映像の拡散力がこれまでとは比べものにならなくなったことと関係していると思うんですが、人々のカメラに対する意識が変わり、これまでと同じようなものが撮れなくなってしまったからだと思います。

それでワイズマンが選んだのが、パブリックな肉体の動きを撮ること。『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』のバレリーナや『ボクシング・ジム』のボクサーなどですね。
だけど、それも『クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち』くらいで「もういいか」となったんでしょう、次に向かったのが、パブリックな場面でスピーチする体を撮ること。最初期からスピーチする体は撮られていましたが、それが前面に出る作品が増えます。

実際、ある種の言語でスピーチする人っていうのは、被写体として興味深いんですよ。私はかつて彼の故郷であるボストンに1年住んだことがあるんですが、そのときに感じたのは、英語って話すほどに楽しくなる言語らしいということ。ワイズマンの近作に映るスピーチする体を観ていてもそれは感じます。

どんな人の話し方にも共通してリズムの良さがあって、そのリズムによって話者自身が開かれていき、パブリックなスピーチであっても、その人の人間性が表れるような感じがある。それは日本語に決定的に欠けている性質だと思います。日本の標準語は人を封じ込めていくタイプの言語というか。それは自作でセリフを扱ってても、すごく感じます。

アメリカ ボストン市庁舎
©2020 Puritan Films, LLC – All Rights Reserved

問題作としての『ボストン市庁舎』。

トランプ政権下のボストンの市庁舎を舞台にした最新作『ボストン市庁舎』も、まさにスピーチする体を扱った作品ですが、個人的には問題作でした。ボストンは住民の90%が民主党の支持者みたいな場所なんですね。
私がボストンで暮らし始めたのは、ちょうどトランプが選挙に勝つ直前でしたが、彼が勝利したことで町全体が打ちひしがれたようなムードに包まれたのが強烈に印象に残っています。

そんな時代に、自分たちはどうしていくのか?というボストニアンのプライドが感じられる作品だと思いました。本作で驚いたことの一つが、これまでのように場所を撮るだけではなく、ほぼ主人公のような人物がいること。撮影当時の市長マーティン・ウォルシュです。これでもかと彼のスピーチシーンが登場します。

これは間違いなく昨年の大統領選を見据えていて、「真のリーダーはどっちだ?」っていう訴えがあったとは思います。先ほどワイズマンはテーマに対して倫理的な関心があるかは謎だと言いましたが、もしかするといよいよ本気で社会を憂え始めているのかもしれない。そう感じさせるくらいの問題作だなと衝撃を受けました。

映画『ボストン市庁舎』

とはいえ、ことさらにそうしたメッセージを強調するわけではなく、ただ自分が隅々まで知っているボストンを普通に撮っているだけとも言えるんですが。それはおそらくこの町に暮らすワイズマンの感覚として、そのまま撮ればトランプ政権に対するアンチテーゼになるという確信があったからでしょう。

声高にメッセージを語ることが悪いとは言いませんけど、映画はプロパガンダ的なものと相性が良すぎるわけで、そういうものから距離をとり続けてきた人として、プロパガンダになり切らないようにしているとは感じました。

ちなみに私はボストンに住んでいるとき、ワイズマンのオフィスの前まで行ったことがあるんです。ただ私の英語力では大したことが話せないと思ったのでノックはせずに帰ったんですけど(笑)。