訳す言葉と話す言葉。日本語はかくも難しい
片桐はいり
稽古場では、常田さんに逐一「この接続詞はどういう意味ですか?」「この語尾を変えてもいいですか?」と質問させてもらっています。
常田景子
片桐さんは着眼点が面白くて、すごく刺激を受けますね。
片桐
日本の演出家がご自身で書いた台本だと何も変えられませんけど、翻訳劇なら少しはご相談できると思ったら、語尾とか語順とか、自然に口にできる言い回しを選びたくなって。
常田
皆さん、ご自身の中にない語彙は、言いにくいと感じるようです。
片桐
「Bastard!」を安藤さんは「ろくでなし」、私は「クソ野郎」と言わせてもらったり(笑)。この間、ある映画を配信で観たら、公開時と訳が変わって、主人公が女性的な言葉遣いから、男性口調になっていました。作品全体がまるで違う印象になって驚きました。
常田
英語は基本的に語尾がないので、訳者が捉えた印象次第になりますね。
片桐
日本語の語尾の違いって、大きく作用するんだなと改めて思いました。
常田
翻訳で悩むのは語尾や人称です。特に男性の場合、「俺」なのか「僕」なのか「私」なのか。話の前後から汲み取りますけど、戯曲の場合、自分のことをどう呼ぶ人物なのか、それを手がかりに役者さんは人物像を作られるから、訳者は責任重大なんですよね。
片桐
常田さんは俳優をなさっていたから、そういう点も細やかなんでしょうね。
常田
日本語は語尾や人称次第で、人物の距離感が変わります。例えば、日本では子供に対して、親が自分のことを「ママはね」と言ったりするでしょう?子供が「お父さんはそう言うけどさ」と文句を言ったり。敵対している場面だから、そこは「あなた」にするようにと海外の演出家に言われたりするけれど、子が親に向かって「あなた」と言うと、日本の感覚では縁を切るくらい突き放す印象になってしまうから、悩みますよね。
片桐
逆に私たちが英語を話す時、誰に対してもYOUと言わなきゃいけないのも抵抗ありますね。「YOUとお呼びしてもよろしいのでございましょうか」という気持ちになっちゃう(笑)。
常田
基本的には日本人が自然に聞こえるように訳しますが、すべてをあまりにも日本語らしくしてしまうと、物語の中で「日本じゃこんなことは言わない」というような不具合が出てきてしまうんです。だから、あくまでも「翻訳劇」というお約束をベースに置かないと。
セリフを体に入れるには
片桐
戯曲も、黙読するのと、朗読として読むのと、自分の言葉としてセリフを口にするのとでは、全然違う体の回路を通す作業になります。セリフを覚えようとしても、腑に落ちないとなかなか言葉が体に入っていかないんです。
常田
動きがつくと、もっと違う感覚になるでしょうね。
片桐
今回、私は7歳の少女役を演(や)りますけど、「パパ」「ママ」と言うのがこそばゆくて、稽古場で「お父さん」「お母さん」でやってみましたけど、しっくりきませんでした。あと、改めて気づいたのは、両親を同時に呼ぶ時に、台本の「ママ、パパ」をすぐ「パパ、ママ」の順で言っちゃう。誰に仕込まれたわけでもなく、父親を先に言うような体になっているんだなって思いました(笑)。
常田
確かにね。
片桐
翻訳劇ではあるけれど、「これは私の中から自然に生まれた言葉です」というふうに見せたくて、セリフの語順や語尾を言いやすいように変えながらやっていたんですね。でも、多少の違和感があっても、訳された言葉をそのまま言った方がお客さんに面白さは伝わるかもしれないなと今日の稽古で気づきました。
常田
イタロ・カルヴィーノは、どの国で翻訳されても物語の本質が伝わるような「旅ができる小説」を書きたいと言ったけれど、リー・ホールの『スプーンフェイス・スタインバーグ』は旅ができる戯曲だと思いますね。
片桐
読み込むほど、背景を知るほど奥深いなと思います。私がイギリスの7歳の丸顔の少女を演じるということ自体も全然自然じゃないですし、きっとなんでもできるんでしょうね(笑)。