ドイツ南部のアイゲルティンゲンでフルーツブランデーとハーブスピリッツ造りを学び、千葉県・大多喜町の薬草園跡地で、日本固有の植物を使った新しい酒造りを始めようとしている江口宏志さん。蒸留所を準備している最中の江口さんが「自分と似た志を感じる」と訪れたのが、岐阜県中部の郡上八幡に開業したばかりの辰巳蒸留所だ。
ここでは、蒸留家の辰巳祥平さんがたった一人、〈アルケミエ〉の屋号で、ジンやアブサンを製造している。辰巳さんはスピリッツ、一方の江口さんはブランデーという酒種の違いはあるものの、共に一般的な蒸留酒ではあまり使用しない土地固有のボタニカルを取り入れ、昔ながらの単式蒸留器を使う、小規模でクラフト的な酒に取り組もうとしている姿勢は変わらない。
もともと辰巳さんは農大の醸造学科出身。焼酎が好きで、在学中80軒以上の蔵を巡り、日本の焼酎銘柄のほとんどを飲み尽くしたという。卒業後も酒蔵で働きながら海外へ飛び、密造酒から珍酒に至るまでを飲み巡り、酒のルーツを探す旅をした。そうして、あらゆる酒を経験した辰巳さんが今年、30歳で辿り着いたのが、焼酎や泡盛をベースとする独自のスピリッツ造りだった。
「スピリッツは発酵から始まる酒造りの最終地点。焼酎や日本酒の製造は法律上新規免許が下りないし、人手もかかるけれど、ジンなら蒸留器さえあればいい。製造法も単純で、一人でもやれるのがよかったんです」
個人での蒸留所という、未知なるチャレンジ
蒸留所は郡上八幡の中心部を少し離れた犬啼の谷にある。周囲には数軒の民家が並ぶが、一歩裏山に足を踏み入れれば、鍾乳洞からの冷たい湧き水が流れる豊かな森が広がる。
「当初は薬草の聖地といわれる伊吹山を候補にしていたんですが、郡上に来て、ここだ!と思って。アブサンが造られているフランスのポンタルリエの谷間の地形にそっくりだったから。こういう谷で蒸留所をやりたかったんですよね(笑)。水がきれいというメリットもありますが、街からも近く、地域の人がフレンドリーなのもいい。郡上八幡はシルクスクリーン発祥の地ともいわれていて、この建物は印刷機械の部品工場でした。8年ほど放置されていた建物を改装しています」
排水や配管、雨漏りしていた屋根の修復など、工事は蒸留所として認可されるのに必要な最低限。建物内には蒸留器が3台並ぶ。約40〜50Lが入る小型の西洋式と、東南アジアや中国に伝わる伝統的な木樽のかぶと釜蒸留器、北海道のメロンブランデー蒸留所からもらってきた1000Lの大型は目下準備中だ。さほど広くない空間を一通り案内してもらって、「自分がやる時もこれでいいんだと感じられて、かなり勇気の湧く場所ですね」と、江口さん。
「建物の設備自体もそうですが、濾過器などの細かい道具まで、すべてがすごくシンプル。この簡素さで免許が下りるというのが衝撃です。製造するアルコールが60度を超えると扉も防火にしなくてはならないし、建築要件が随分違ってくる。けれど、60度の壁をうまくコントロールする、こういうやり方もあるんですね」
ただし、ハードルもある。それは海外と違う日本の酒造法。ミニマムな設備で条件をクリアしたとしても、蒸留酒で年間製造量が最低6000L以上必要という規定は、小規模生産者にとって正直厳しい。個人で蒸留酒をやろうとする人が日本でめったにいないのもそのせいだろう。
「ビールなら1本飲める量でも、度数の高いジンやブランデーではそうはいかない。個人で量を捌くのが今後の課題になってくるでしょうね」と、辰巳さん。蒸留からボトリング、販売まで、一人きりの蒸留所をいかに工夫して回すか。そのDIY感や商法が、大規模業者と一線を画す、ブランドの個性になるだろう。
小規模だからこそできる、ユニークな酒がある
さまざまなハードルをクリアし、辰巳蒸留所で造られる酒とは、どのようなものか。訪れた前日に完成したというファーストラベルのジンを辰巳さんが振る舞ってくれた。
「これは最初に味のベースとなるシンプルなジンを完成させようと焼酎とジュニパーベリーだけで蒸留したものです。焼酎っぽさが残ってもうちょいな感じですが(笑)。もう一度蒸留すれば、厚みが出るかなぁ」
「あーほんとですね。でもおいしいです。ジュニパー感が強い!僕にとって小規模蒸留の面白いところは、こういう“これもうちょいなんだけど”みたいな、未完成ながらチャレンジングなものも出てくるところですね。こういうのは、大手からは間違いなく出てこないですから」
〈アルケミエ〉の基本となるこのジンがおいしく完成したら、裏山で摘んだ野草や果物などを混ぜて、ブランデーに近いような面白いスピリッツを造っていきたいと話す辰巳さん。
通常、海外のジンは無味無臭のスピリッツを原料にするが、辰巳さんが使うのは日本ならではの焼酎で、好きな蔵の、米、麦、芋、黒糖や泡盛。ボトルは岐阜で作られている薬用瓶、ラベルは美濃の和紙にシルクスクリーンで手刷りするなど、原料からパッケージまで、作り手が見えることを大切にしている。
「〈アルケミエ〉は“錬金術師たち”の意味。水をすくう手をイメージしたラベルの絵は、いろいろな人に支えられての一滴をイメージしています。自分は蒸留担当ですが、自分の前には発酵担当や栽培担当がいて、後には酒を出すバーテンダーがいる。そうして人の手を渡って、育っていく。僕が、生産者がわかる原料を買うのも、そのつながりを意識するからなんです。20年後、今から仕込んで樽で熟成させたおいしい酒が一つできていたらいいなと思いますね」と、辰巳さん。
小規模蒸留の先陣を切る2人の蒸留家の酒が、バーで飲める日は近い。彼らのチャレンジによって、日本の酒やバーの未来はどのように変わっていくのだろうか。