鈴木ジェロニモ
初めて短歌を作ったのは、芸人になって2年目の2019年でした。僕は短歌に対して、与謝野晶子に代表されるような情愛を詠むものというイメージがあり、自分には縁遠いと思っていました。しかし、歌人の木下龍也さんと岡野大嗣さんの共著の出版イベントに行ったら、クスッと笑える歌もあって自分にもやれるのかなと。
最初にSNSに上げた時は、周りの芸人からダサいポエムみたいといじり半分で言われましたが、最近になって、芸人が短歌を作ることに対しての温度感が変わってきた気はしています。
又吉直樹
字数制限のあるSNSで伝えたいことを伝えるのに、キラーフレーズを意識する人もいるし、言葉に触れる機会が多い今は短歌との親和性が高いですよね。
鈴木君の歌は何首か読むうちに、音楽のようにも感じられるリフレインが印象的でした。「七味のビンに違う七味を詰め替えて振るたびに違う七味が出てくる」とか、七味を3回、あえて入れたかったんだなと。
鈴木
実は僕の短歌の源流には、又吉さんとせきしろさんの『蕎麦湯が来ない』で読んだ自由律俳句があるんです。歌集のタイトルにした『晴れていたら絶景』も、そのイメージでつけたもので。
どれだけ短くキレイに場面を切り抜くかが主たる俳句の表現で、それに叙情を加えるのが短歌のスタンダードですが、僕は短歌の五七五七七の長さを全部使って、俳句のような切り抜きをすることを意識しています。その欠落した空白感が好きなのかもしれません。
又吉
曇りだったのか雨なのか、「晴れていたら向こうに島が見えます」って展望台の看板とかによくあるもんね。想像できます。鈴木君の短歌を読んでいると、なぜそんなことを言いたくなったのかと思ってしまうけれど、それが言語化されることによって急に際立ってくるような印象はすごくありますね。
例えば、「長靴の長の部分が畳まれて窮屈そうな雨の下駄箱」も、まさに多くの人が見てきた風景のはずだけれど、誰かと答え合わせをしたことはない。長靴のあそこって「長」の部分だったのか、とかね。
(1)も雨の日のマンションの廊下が鮮やかに浮かぶ。傘を掛けていた時間によって、水たまりの大きさが違っていたりするんだよね。見たままだけれど、ただそれだけでもなく、“どう見ているか”というのが表現に含まれているのが面白いところだと思います。
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一行の短歌に見える、芸人ならではの着眼点
鈴木
芸人的な視点を感じる短歌で言うと僕は、(2)が印象的でしたね。100均で120個入りのクリップを買って1つ使ったというだけの状況を、119個余らせたダメな自分としてメタ目線で見て面白くしている。
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又吉
本当はクリップが1つ使えて成功しているんだよね。でも、それでは面白くないから、成功の中に失敗をきちんと発見して強化している。
鈴木
1999本打った段階でベンチ裏にスタンバイされる花束が、来る日も来る日も渡せない(3)も、出番のない花への着眼点がいいなぁと。
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又吉
2日くらい出なかったらコーチの誰かが持って帰って、また新しい花を用意したりするんだろうな。
鈴木
別れのシーンを歌った(4)の静と動の使い分けも巧妙です。さようならの雨って、静かに降るイメージがありますが、「ふたりのおもいでをひっくり返したような雨」という、情景的にはあり得ないのに納得できてしまう新しい言い回しは、芸人的な表現と言えるのかなと思います。
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又吉
どこまでが計算なのかはわからないけれど、外はまだ大雨だから、さっと帰れないという未練も感じられますね。
冷静を装っている自分がエレベーターのボタンを押していなくて、めちゃ酔っていたと気づく(5)の瞬間も、思い当たるところがありますね。酔ってシラフではあり得ない場所に座ってしまっていた自分に、ふと気づいた夜を思い出しました。
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ルールからの飛距離が、芸人特有の表現を生み出す
又吉
お笑いって大喜利にギャグにコントに、とにかくジャンルが幅広い。そして、それらのほとんどに言葉を使う。めちゃくちゃ言葉を生み出さないと間に合わない職業でもあるんですよね。
たぶん鈴木君もそうだと思うけど、ネタを考えている途中で、この言い回しはウケにくいけど捨てるのは嫌だなっていうのがあったりするじゃない?そうやってネタ帳のハシにたまっていく発表の場が与えられない言葉の連なりみたいなものが、僕で言うと自由律俳句と結びつきやすかったんですよね。
鈴木君の場合は、それが短歌になっていったのかなと思うんです。
鈴木
まさにそうで、最初は思いついた全部をお笑いのネタにしようとしていたんですが、そのうちこれは表現しなくても、というフレーズが出てきて。それらの居場所を探していて短歌にハマったのはありますね。
又吉
芸人って歌人と比べて、短歌の定型に則(のっと)って全力を尽くした後で、一度崩したくなるクセがあると思うんです。(6)は崩しすぎだけれど、1首でなく5首のうち4首目でこれをやっているから品がある。ちゃんと短歌として成立していると思います。
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鈴木
ルールを何もかも無視するのではなく、それをきちんと把握したうえで定型というものに挑戦する。芸人の短歌から、怒られないようにふざけたい精神を感じることも多いですね。
以前、短歌の定型を漫才のセンターマイクに譬(たと)えたことがありますが、その中心からどれほど距離を取れるかを適切に見極めていく技術と能力が必要なところで、お笑いと短歌は似ている。
芸人は普通、顔が見えた状態で表現するものですが、短歌はそれがいらないから、ネット大喜利にも近いかもしれませんね。見かけに左右されないからこそ、読む側の想像力が研ぎ澄まされて、より見えてくる何かがあったりする。
又吉
前に押し出す系の芸人の短歌がロマンティックで繊細だったり、穏やかそうな人に短歌のフォーマットを破壊する衝動があったり。芸と重なる部分や、意外な部分に、本質が見え隠れする部分もありますね。
鈴木
顔が見えることで確定される笑いの情報を超えて、見せていなかったはずの自分の顔が何倍も濃く表れた短歌ができた時に、芸人としての喜びを感じるのかなと思います。