月と火星への有人探査の現実性
宇宙は人類が憧れ続ける冒険の舞台。月面着陸や火星移住といった夢が語られて久しい一方で、「それはいつ実現するのか?」という問いには、いまだに明確な答えが見えにくいのが現状だ。
そんな中、NASAの「アルテミス計画」(1)が2022年に無人での月周回飛行に成功し、月への有人飛行の機運も高まったように思えるが、実際はどうなのか?宇宙開発の第一人者である的川泰宣さんに、月・火星への冒険のシビアな「現在地」を聞いてみた。

NASAが中心となって進めている有人月探査計画。アポロ計画以来となる月面着陸を目指し、初めて女性と有色人種の宇宙飛行士が月に降り立つ予定。巨大ロケットの「SLS」や「スターシップ」、宇宙船「オリオン」を使い、月周回基地〈ゲートウェイ〉の建設や、月面での長期滞在も視野に入れている。将来的には火星探査への足がかりとする計画だったが現在は大幅な見直しが行われている。
「現状の前に簡単に、月と火星への有人探査の流れを振り返っておくと、まずは1960年代にアメリカが月面着陸を目指したアポロ計画ですよね。あれは冷戦で、アメリカがソ連に勝つための政治的な意味合いが強かったので、科学の話というよりは、宇宙飛行士がスターみたいに注目されていた印象です。
アポロ計画後は、アメリカでは“月に行けたなら次は火星”という声もあって、バズ・オルドリン(アポロ11号の宇宙飛行士)などは特に熱心だったんですけど、ほかの国はまだ月にすら行っていないので、“まずは月から”という雰囲気が強かった。それでもアメリカは“火星だ!火星だ!”と言うので、なんとなく火星を目指す空気もできていましたけどね」
実は、火星に行くために本格的な科学的計画が最初に考えられたのは1948年、ヴェルナー・フォン・ブラウンによるものだった。しかしながら、アポロ計画でサターンVロケットの開発を担っていた彼はその大変さを肌で感じていたため、「今は火星はさすがに無理なのでは?」という空気になったのではないかと的川さんは推測する。
「アポロ計画の後、アメリカの有人宇宙飛行計画はスペースシャトルという宇宙往還機の方向に進み、ソ連は〈ミール〉という宇宙ステーションの方向へ。個人的にはこの2つが組み合わさったら面白いものができるのでは、と思っていたらソ連が崩壊してロシアになり、最終的に国際協力が実現してISS(国際宇宙ステーション)ができたわけです」
第41代ジョージ・H・W・ブッシュ大統領の時代になって、ようやく「再び月へ」という流れが生まれ火星を目指す話も出たが、予算がつかずに消滅。その息子のジョージ・W・ブッシュ大統領の時代には「コンステレーション計画」という、月と火星の両方を目指そうとする計画があったが、それもオバマ政権に代わって中止になってしまった。
「オバマ大統領は原子力ロケットを使い約100日で火星に行く、という構想も出したのですが、実際のところ本気には見えませんでした。そのうちISSの寿命が見えてきて、“次はどうする?”という風潮の中でアルテミス計画が出てきたんです」
月、そして火星も見据えたアルテミス計画
アルテミス計画は、まず2022年に「アルテミス1」で無人での月周回飛行を行って技術検証を終え、26年に「アルテミス2」で4人の宇宙飛行士が月を周回飛行する予定。その後、27年に「アルテミス3」で女性と有色人種の初の月面着陸を行い、28年の「アルテミス4」では、並行して建設予定の〈ゲートウェイ〉(2)に向かい、そこで乗り換えて月に着陸する予定になっていた。

アルテミス計画の一環として月周回軌道に建設される予定だった宇宙ステーション。宇宙飛行士が月面着陸するための中継基地として使われ、将来的には火星探査の拠点になる計画だった。NASA主導で国際協力の下、進められており、日本も参加していた。
「ところが、『アルテミス1』の後があまり進んでいないんです。トランプ政権が誕生したことで、NASAの予算もどうなるか不透明になってきていますし、イーロン・マスクの影響もあって、月より火星の方が重視されてきていて。マスクは“将来的には火星に100万人規模の都市を造る!”などと言って話題になっていますよね。マスクにとっては火星がゴールなんです。
その影響で、アメリカの宇宙政策も月より火星に傾いてきている印象があります。月軌道上のゲートウェイもやめると言っていますし。おそらく、有人月面着陸まではなんとかやると思うけれど、その後がどうなるかはかなり怪しいところ。
SLS(Space Launch System)(3)という、月や火星へ向かうオリオン宇宙船を打ち上げるための大型ロケットも、すでに造った分は使うけど、新しくは造らない方針のようですし。“女性と有色人種を月に立たせる”という象徴的な話も、最近ではあまり聞かれなくなってきました」

NASAが開発した月や火星など深宇宙への探査ミッションを行うために設計された大型ロケット。スペースシャトル以来の超大型ロケットであり、現在開発中のロケットの中では最も強力な打ち上げ能力を持つロケットの一つ。
ゲートウェイを中止にすると、そこを拠点にして将来的に火星を目指す計画も難しくなり、スペースX(4)を率いるイーロン・マスクは困るのではないかと思いきや、マスクは月を飛ばして、一気に火星を目指すつもりらしい。

イーロン・マスクが設立した民間宇宙企業。有人宇宙船クルードラゴンでは、ISSに宇宙飛行士を定期的に送り届けている。ロケットの再利用技術でも注目を集め、アルテミス計画では月着陸船を運ぶ「スターシップ」を開発中。将来的には火星への有人移住を目指す。
「どうやらマスクのグループは、ゲートウェイは火星探査には不要と考えているようです。議会の承認はまだなので完全に中止になったわけではありませんが、現在は未確定ですね。
ゲートウェイ計画では日本のJAXAも協力することが決まっていたのですが、NASAとしては“ゲートウェイはもうやらないから、そのために積み上げてきた技術はなにか別の目的に転用することを考えてほしい”という意向のよう。自分で言いだしておいて、自分でやめちゃうんだからNASAも勝手ですよね(笑)。日本もヨーロッパも困っていると思いますよ。
マスクは、一気に並行してさまざまな開発を進めて火星を目指すという野心を持っているようだけど、現場のエンジニアはあまり現実的に感じていないのではないかと思いますね。ただ行くだけなのと、長期にわたって人間が滞在するのではぜんぜん違いますから」
月に比べてもハードルが非常に高いといわれている火星は、行くのにも最低6ヵ月はかかる。さらに、一度行ってしまうと、次に地球が近くなるタイミングまでに約2年かかるため、それまで火星に滞在しなくてはいけない。問題は山積みだ。
「現地で人間が住むための環境も必要ですし、そこで使う酸素や水も火星の資源を利用して造らなきゃいけない。一番やっかいなのは帰りの燃料です。帰りの燃料まで地球から持っていくことはできないから、現地で造らなきゃいけない。
それらの大掛かりな施設を先に火星に送り込んで、ちゃんと稼働することを確認してから人を送るわけですから。こうしたまだ計画段階の技術を、まずは月面滞在を目指しながら少しずつ確立していって、そこから火星を目指さないと、無理だと思うんですけどね。すぐに地球に帰れる月面にも住んだことがないのに」
さらに通信の問題も大きいという。月の場合は1秒ほどで通信可能だが、火星の場合は片道で最大20分を要する。つまり往復で約40分かかるため、緊急時の対応なども、地球と相談することは困難を極める。
また、2023年から24年の約1年間、ジョンソン宇宙センター内にある3Dプリントされた居住施設で4人のクルーが閉鎖環境で火星の生活をシミュレーションする「CHAPEA」(5)という計画が実施された。火星探査については、まだそうした検証がやっと始まった段階なのだという。

ジョンソン宇宙センター内の火星模擬施設で実施されたミッション。4人の乗組員が約1年間にわたり火星にいるかのような閉鎖環境で生活し、通信の遅延、食料やエネルギーの持続的利用、ストレス管理といった課題に取り組んだ。
世界の有権者たちが描く、宇宙の未来予想図とは?
火星の有人着陸はまだあまりにも無謀な夢物語というのが現状のようだ。それでも、火星に着陸しないで、周回してそのまま戻ってくる有人火星周回飛行であれば、かなり現実的になるという。
「着陸せずに火星の周りを回って帰ってくるだけであれば、それは可能でしょうね。中国が先にやるかもしれませんね。アポロ8号が月面着陸のリハーサルとして月周回飛行を行った時に、宇宙飛行士が撮った月面越しの地球の写真は大きな感動を呼んだように、火星でも人間が写真を撮れたら、それは感動を呼ぶと思います」
火星から人間が撮った地球の写真……想像するだけでワクワクする話である。では、有人火星周回飛行を実行する際に問題になるのは?
「それは、宇宙放射線ですね。地球や地球軌道にあるISSは磁場に守られているけど、火星への道のりでは最低でも片道6ヵ月間、宇宙放射線を浴び続けてしまい、それを防ぐ技術はまだ開発されていません。アポロ計画の時も放射線をずいぶん浴びているはずなんだけど、火星への旅では比較にならないくらいの量を浴びるので。月へ行くアルテミス計画でも、アポロの時のように行ってすぐ帰ってくるわけではなく、月に滞在することを目的としているため、アポロ計画の時よりかなり厳重に考えておかなくてはいけない」

もう一つの大きな障壁は、やはり資金の問題。宇宙開発はあまりにも莫大な予算がかかるために、その実現性は政治的だったり世論的なことにも大きく左右されてしまう。
「今のような不安定な世界情勢の中で、“宇宙へ行くのが人類の幸せにつながる”ってはっきり言える人はあまり多くなくて。火星への有人探査が人々の大きな共感を得ているようには残念ながら思えませんね。宇宙と地球のつながりを真剣に考え直さなくてはいけない時代なんだと思います。
それでも、ブルーオリジン(6)を率いるAmazon創業者のジェフ・ベゾスなんかは、太陽系のさまざまな重要なポイントにスペースステーションを造る、という計画を立てていて、これは非常に面白い考え方だなと思っています。月と火星はもちろん、木星や土星の衛星のそばにも。木星の衛星であるエウロパの周回ステーションを造って生命の探査をするという計画もあるみたいで。

アマゾンの創業者ジェフ・ベゾスが設立した民間宇宙企業。アルテミス計画では月着陸船「ブルームーンMK2」の開発も担当。また、民間宇宙ステーション〈オービタル・リーフ〉構想も進めている。2025年にはベゾスの婚約者であるローレン・サンチェスが、ケイティ・ペリーらとともに初の女性だけによる宇宙旅行を行った。
もちろん、それほどはっきりとした計画になっているわけではないけれど、太陽系の魅力的な場所を選んでステーションを造り、人間がそこへ行くかは別として、徹底的にその星を探査するというのは興味深いです。マスクとベゾス、どちらが先にその野望を実現するのか楽しみですね」