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あらゆる「好き」を拒まない。今泉力哉の恋愛映画

今まで通りの手法でブロックバスターのような大作を作り続けるだけでは、アーティスティックなムービーをストイックに作るだけでは、大きな波に簡単にさらわれてしまう現代。何を創り、何を訴え、そして時代にどのように爪痕を残すのか。時代と闘いながらマスターピースを作ってきた今泉力哉と、その作品について考えます。

初出:BRUTUS No.927『映画監督論。』(2020年11月15日発売)

illustration: Masaki Takahashi / text: Yusuke Monma

今泉力哉は日本の恋愛劇の新しい旗手だ。彼が作る映画はたいていの場合、恋愛を主題にしている。そしてそこにいくつもの恋愛感情を映している。例えば2019年に公開され、ロングランを記録した『愛がなんだ』。

恋人でも何でもない、自分をいいようにあしらう男に、一方的に熱を上げる女を中心にして、この作品は5人の男女の間を交錯する、決して実を結ばない恋心を描き出す。

「みんながみんな“好き”って伝えられるわけじゃないじゃんか。本気で好きだから逆に言えないってこともあるだろうし……お互いがそれでいいならいいんじゃない?」(劇中の台詞より)
ここでは片思いが、相思相愛に至る手前の未熟な恋情としてではなく、一つの恋の形として扱われ、また尊重されている。

かと思えば、14年公開の『サッドティー』はこんな具合だ。総勢10人以上の男女が登場し、てんでばらばらな恋のなりゆきを見せるこの群像喜劇で、二股をかけている自堕落な男は、見知らぬ女に一目惚れして恋人を捨てた友人に言い放つ。

「正しい恋愛なんてねえんだよ!」

果たして恋愛とは、「好き」とはいったい何なのだろうか?「好き」に、いいとか悪いとか、正しいとか間違ってるとか、そういった尺度は有用なのだろうか?
今泉力哉の恋愛映画は、観る人に「好き」とは何かを突きつけ、価値観を揺さぶり、そのうえであらゆる「好き」を拒まない。片思いも二股も横恋慕も、彼の映画では一概には否定されず、すべて「好き」に包摂される。

つまり彼が映画を通して語るのは、「好き」は人それぞれでいいじゃん、ということだ。10人いれば10通りの、100人いれば100通りの「好き」があるし、当然、その分だけ多様な関係性がある。

「2人にしかわかんない関係性みたいなものもあったりするじゃん。ねえ?」(『愛がなんだ』より)

『愛がなんだ』
角田光代の小説を映画化し、大ヒットを記録した、彼の代表作と言っていい一作。猫背のマモちゃんに夢中になり、彼以外には何も見えなくなってしまったテルコの恋物語が中心だが、周囲のキャラクターの心情描写も繊細で、主役と脇役のドラマに軽重のないところがまた、今泉作品の美点だ。若葉竜也、江口のりこがいい。

そして「好き」を媒介にした関係性は、16年の『退屈な日々にさようならを』において、ここには既にいない男と、亡くなった彼を思い続ける女との関係性にまで拡張された。

結局のところ、今泉力哉は人それぞれの「好き」を肯定することによって、人それぞれの生き方を肯定しているのだろう。最大公約数的な恋愛関係を育めない、時に周囲から眉をひそめられたりする、非常識で、怠惰で、駄目な人々の生き方を、彼は肯定しているのだ。

その考え方はたぶん彼の演出のスタイルにも通底する。
長い間、インディペンデントの領域でワークショップなどを土台に作品を作ってきた彼は、まだキャリアの浅い役者たちを多数起用しながら、彼らから驚くほどみずみずしい、嘘のない芝居を引き出してきた。彼の演出は役者たちをありきたりな型にはめたりしない。

人それぞれでいいじゃん。役者たちの芝居もそう言っているみたいに見える。

『退屈な日々にさようならを』
ワークショップに参加した俳優たちとオリジナル脚本で作り上げた群像劇。故郷の福島と東京を舞台に、震災後の心情を織り交ぜながら、造園会社を畳むことになった男や、10年近く連絡のつかないその双子の弟など、彼らの関係性の揺らぎを映し出す。死者への思いを断ち切れない女に松本まりかが扮し、以降注目を集めた。