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名建築で辿る、大阪の100年史

味のあるレトロビルから最新の建築まで、なぜ大阪にはさまざまな年代の名建築が存在しているのだろう?建築史家の倉方俊輔さんに教えてもらった、都市構造と、近現代の名建築から見える、大阪の100年史。

初出:BRUTUS No.911「大阪の正解」(2020年3月1日発売)

photo: Kiyoshi Nishioka / text: Katsura Hiratsuka

案内人:倉方俊輔(大阪市立大学准教授、建築史家)

大阪はカオティックな街だと思われがちですが、都市構造は明快です。ベースは豊臣秀吉による碁盤の目状の街割でした。近代に入り、政治、産業、交通手段の変化に合わせて新たな建築が造られ、街の造りも変化していきました。

まず廃藩置県により中之島の流通拠点として立ち並ぶ蔵屋敷が姿を消し、広い開発用地が生まれました。そこに〈日本銀行大阪支店〉や〈大阪府立中之島図書館〉〈大阪市中央公会堂〉などの西洋建築ができ、中之島は近代化のシンボルとなる建築が集結する拠点となりました。

同じように敷地が空いた大阪城の周辺エリアには、軍事施設や財界人の邸宅などが建ちました。〈太閤園淀川邸〉は、藤田財閥の創始者が息子のために建てた邸宅を活用した宴会場です。近代和風建築は、戦災や社会の変化の影響を受けやすく、大都市の中心部でこれだけ立派なものが公開されているのは、全国でもここくらいではないでしょうか。

その頃、建築の不燃化は大きな課題で、特に関東大震災後、地震と火災に耐え得る建物をという機運が高まり、鉄筋コンクリート造の建築が増えました。その一つが〈芝川ビル〉で、延焼を防ぐために窓や玄関に鉄扉を付けるなど、構造以外の工夫もなされています。

“筋を通し”て生まれた近代大阪の名建築

近代化に伴い、大阪の都市構造も変わりました。大きな変化は、東西軸から南北軸へとメインの通りが逆転したことです。大阪では横(東西)の道を“通(とおり)”、縦(南北)の道を“筋(すじ)”と呼びます。かつての都市軸は大阪城と海をつなぐ“通”でしたが、近代に入ると縦の筋が重要に。北の街外れに梅田駅が、市街地南端のターミナルとして天王寺駅が造られ、南北の動線が必要になり、筋が次々と拡幅されていきました。

まず堺筋が拡幅され、市電が通り、デパートや洋品店などのハイカラな施設ができました。堺筋沿いには時計店の店舗兼事務所だった〈生駒ビルヂング〉などの、往年の文化を伝える建築が残っています。

続いて開発されたのが御堂筋です。当時の市長である関一(せきはじめ)の英断で、車がほぼ走っていない時期に道路が幅44mまで拡幅され、その下に日本初の公営地下鉄が開通。御堂筋は〈大阪ガスビル〉をはじめモダンな建築が並ぶオフィス街となりました。

ところで大阪には昔の建築が数多く残っているといわれます。理由は3つ。まず、そもそも名建築が多かったこと。大阪はかつて東京と並ぶ経済の中心で、ほかの大都市と比べ、立派な建築が建てられました。2つ目は、地震などによる被害が比較的少なかったこと。3つ目は高度経済成長期以降、東京に比べて開発の動きが鈍かったためです。

特に驚かされるのは「倶楽部」と呼ばれる会員制の企業人の社交場が、今も現役なこと。東京にも「○○倶楽部」の名を冠したビルはありますが、関西の財界人たちが設立した〈大阪倶楽部〉や繊維業者たちが建てた〈綿業会館〉など、建物も倶楽部という機能も現役なのです。

近代建築には格式が重んじられましたが、戦後になると、村野藤吾という、施主が喜ぶ勘所を押さえた建築家の台頭や、職人の腕の良さを背景に、自由で良質な建築が主に民間から生まれました。大都市には珍しく大阪では〈堂島サンボア バー〉をはじめとする飲食店にも質の高いものが残っていて、戦後復興期のエネルギーが伝わってきます。

その頃、村野の設計で生まれた異色作が、梅田駅前にある〈梅田吸気塔〉です。これは地下街へ空気を送り込む塔で、本来意匠にこだわる必要はありません。しかし都市景観としてインパクトがある構築物で、そこに一流の民間デザイナーを登用したことに高い見識を感じます。

1960年代のオリンピックから万博へという、右肩上がりの成長期。まず大型ホテル〈大阪ロイヤルホテル(現リーガロイヤルホテル)〉ができました。高層建築では武骨な太い柱が空間に現れるのですが、設計者の吉田五十八が見事なのはその柱に蒔絵(まきえ)を施し、空間に溶け込ませて優雅にまとめたことです。

大阪万博の成果は、動く歩道や巨大な吹き抜けといった新しい空間体験を提供したことだと思います。未来的な空間への志向は〈千里中央駅〉など、万博に合わせて開発された施設にも反映されています。そして万博に由来する施設といえばカプセル型宿泊ユニット〈スリープカプセル〉です。万博でカプセル住居を見た大阪のサウナ経営者が、その提唱者である黒川紀章に依頼。スリープカプセルが開発されました。

1980年代、高さや量を競う時代ではなくなり、新たな建築のあり方を探る建築家が現れます。一人は中筋修。居住者を集めて造るオーダーメイドの集合住宅「コーポラティブハウス」を先駆的に展開し、〈都住創スパイヤー〉をはじめとする作品で、都心居住の可能性を問いかけました。もう一人は安藤忠雄。

今でこそ世界中でビッグプロジェクトを手がける安藤さんですが当時は自ら都市ゲリラと称し、小気味よい商業施設や住宅を生み出しました。〈日本橋の家〉は90年代の作ですが、狭小敷地で豊かな体験ができる、初期の安藤さんらしい作品です。

社長が支える、大阪の建築文化

バブルの時期の建築は現在あまり評価されていませんが、大阪では当時の振り切ったデザインの建築が、都市の良き資産となっています。例えば〈梅田スカイビル〉は箱形がほとんどの日本の超高層ビル界で、夕暮れ時のシルエットだけでわかる珍しい建物です。近年の梅田の再開発とインバウンド人気を追い風に年々評価を高めています。

〈オーガニックビル〉はイタリア人デザイナーによる大胆な外観が、バブルの勢いを思わせますが、老舗昆布屋の自社ビルとして丁寧にメンテナンスされ街に定着しています。実は大阪の建築が長持ちしている理由の一つは、オーナー社長の多さだと思います。東京の会社などでは同族経営を避ける傾向があり、それこそが民主的だと考えられがちですが、実はオーナー社長の方が長い目で見た決断ができるのかもしれません。

2000年前後、閑散とした倉庫街だった中之島西部の再開発が進みます。まず国際会議場〈大阪府立国際会議場(グランキューブ大阪)〉が、続いて〈中之島三井ビルディング〉ができ、川沿いに整然と並ぶ今の高層ビル群の、先鞭をつけました。

そして2010年代、既存の建築の建て替えやリノベーションの際に、素材などを引き継ぎ、過去の記憶や空気感を再生する傾向が生まれました。草分けは〈ダイビル本館〉で、元のビルのレンガを再利用するなど、過去の建築を継承し、その後〈大丸心斎橋店本館〉をはじめとする、近代建築の建て替えに大きな影響を及ぼしました。また〈髙島屋東別館〉では歴史的百貨店建築を細部まで残し、その一部を宿泊施設へと大胆に機能を変えてリノベーションする、挑戦的な試みがなされました。

大阪は商人の町で、評判を大切にします。設計も信頼関係が構築できている地元の建築家や会社に頼むことが多く、一見さんにはあまり依頼しません。その中で〈大阪中之島美術館〉は珍しく、東京を拠点としていた遠藤克彦建築研究所が選ばれ、開かれたスペースとなりそうです。

大阪は公共施設であっても寄付などを通じて民間資金で建築が造られることが多いのです。自分がお金を払ったものだからこそ、いいものを造りたいし、愛し続ける。そこが大阪のハイレベルな建築を支えてきたのだと思います。

大阪〈大阪府立中之島図書館〉中央ホール
教会を思わせる〈大阪府立中之島図書館〉中央ホール。ドーム状の天井頂部のステンドグラスから光が降り注ぐ。市役所に隣接するシティセンターに、時間が止まったような重厚な空間が潜んでいるのが、大阪の建築の層の厚さだ。