あらゆる視点を内包すること、共感が生み出したカオスの先にある傑作
竹田ダニエル
この映画は、アジア系アメリカ人2世であり、クィアであり、登場人物と重なる部分も多い私にとってもパーソナルなものでした。マイノリティを主役にした作品で、なぜここまで多くの人の共感を得られたと思いますか?
ダニエル・クワン
その問いには、映画が公開されてから8ヵ月間、自問自答し続けてきました。理由の一つはタイミングかなと。パンデミックや政治的な問題で、大変な数年間を過ごしてきた中で、人々が久しぶりに映画館に戻ってきた時期だったんです。
2つ目は、世代間の関係、つまりトラウマと愛の両方を描いている点。例えば母親とその子供がこの映画を観に行ったとき、2人とも全く違う形で映画を感じ、2つの異なる理由で映画を評価できる。
ある人はこの映画がアジア系アメリカ人の移民の物語であることに共感し、また別の人は、この作品がクィアの物語であることに共感できる。そしてある人は、「ああ、これは私の鬱やメンタルヘルスの状況を描いた物語だ」と。「すべて」を盛り込んだ作品を作ろうとした結果、みんなにとって「共感できる」作品になったことが大きいのかなと感じています。
竹田
なるほど。アジア人にとっての「赦し」のファンタジー映画、つまり、移民2世の子供が親世代を赦すファンタジー映画は、最近よく目にするようになったと感じています。
ダニエル・シャイナート
クエンティン・タランティーノが歴史的な復讐劇でやっていたような、歴史を完全に書き換えるような、奇妙で小さな方法を連想させますよね。これはカタルシスをもたらす手法です。なぜなら実際の歴史上成し得なかったことを、物語でなら成し得るから。
私たちの映画でも、終盤にエヴリン(主人公)とウェイモンド(夫)の2人がキスをする瞬間を見ると、ほかの映画だったら安っぽくて陳腐なんだけど、アジア系アメリカ人の視点という文脈では、家族の中の愛情を見て育たないから、力強い出来事になったんだと思っています。
竹田
この映画は、自分のトラウマを受け入れて、それを癒やし、修正するための努力を描いています。個人的には、とてもパーソナルで、自分の母に見せるのが怖いくらいです(笑)。アメリカでは受け入れられたこの映画がアジアでどのように受け止められるか、あるいは受け止められたいか、どのように感じていますか?
クワン
アジア系アメリカ人のストーリーは、日本や中国、韓国に住む人々のストーリーとは全く異なるということは理解しています。だから、製作しているとき、これほど国際的に広がるとは思ってもみなかった。アニメやカンフーなどアジア映画から多くのインスピレーションを得ています。アジアン・アメリカン・ストーリーの微妙なニュアンスが、観客には伝わらなかったとしても、アクションの面白さや不条理さだけで楽しんでもらえると期待はあります。
世代を超えるために練られた脚本
竹田
世代間の反応の違いは感じますか?
シャイナート
違いはあると思います。でも、私が最も誇りに思っていることの一つは、この作品に取り組めば取り組むほど、エヴリンの視点に信憑性と信用を与え、その視点を見下すように描かないように努めたことです。だって、私たちにとっての主人公は彼女だから。この映画の中で自分たちを中心に据えるのではなく、その視点に共感できるようにすることが大きな課題でした。
本当に望んでいたのは、この映画が若い人たちだけのものであってほしくないということ。一番恐れていたのは、この映画が嘘くさくなってしまうこと、母親としての冒険が不誠実なものに感じられてしまうことでした。若者からの反応も、上の世代からの反応も違っていて、「怒れる若者」のためだけのエコーチェンバー映画ではないことが、大きいと思います。
竹田
この映画では、親が、変化していく人間として描かれていて、トラウマの連鎖を断ち切ることができるというのは、とても新鮮でしたね。日本の大人たちがどう受け止めるのか、興味深いところです。一方で、西洋の価値観にかなり触れている若い人たちの中で、何かが目覚めるきっかけになるような映画ではないかと感じました。
クワン
とても興味深いことに触れていると思います。初期の段階で脚本のアウトラインを書いていたとき、最初に挑戦したことの一つは、「自分の考えを変えることがいかに難しいかを示す映画を作ったらどうだろう」ということでした。エヴリンはマルチバースを通り抜け、脳を粉々にされ、文字通り同時にどこにでも(everywhere)存在しなければ、考えを変えることができなかった。
個人的な経験から言うと、以前の私はとても宗教的で、非常に福音的なキリスト教徒でした。それから今の自分になるまでの過程は、ほとんど多元宇宙を通り抜け、脳が爆発したように感じたほど。この映画は、それをとても遊び心のある方法でドラマ化する方法を見つけようとしたのですが、同時に、できれば、人々に、そして特に上の世代に、少しばかりの許容と理解を持って描きたいと思いました。
すべての映画は政治的な映画である
竹田
この映画は、政治的な文脈でも話題になっています。例えば主人公を演じたミシェル・ヨーがインタビューで「ハリウッドではアジア系は二次的な市民として扱われている」と語っているように、長年続いている人種差別に異議を唱えている。お二方はこの映画を政治的主張として捉えていますか?
クワン
まず第一に、我々はすべての映画は政治的な映画であると、いつも言っています。たとえそれが現状を支持するものであっても、無自覚であっても、政治的な意図は大いに存在する。そういう意味で私たちの映画は政治的ではありますが、必ずしも議題を押しつけようとしているわけではありません。
この映画は、正直なところ、ドナルド・トランプがあまりにも恐ろしくて、インターネットがアメリカの政治を破壊してしまったのではないか、というような2016年への反応から立ち上がりました。
私たちは親の世代を赦せるのだろうか?ということも一つのテーマです。政治は多くの場合、個人のストーリーや感情は還元的で単純化され、ニュアンスの異なる会話をスローガンで押し込めてしまうものだと思います。私たちの映画は、それに対抗しようとしたのです。
竹田
あなた方が世界でどんな変化を望んでいるのか、そしてこの映画がそれにどう影響を与えると考えているのか、知りたいです。
シャイナート
私たちは個人主義に向かうのではなく、どうすれば大きな方法で世界を変えることができるのか、どうすれば小さな積み重ねによって創発的な変化を生み出すことができるのかについて考えなければなりません。
そのためには、「善対悪」や「悪者探し」という見方でストーリーを観るのではなく、システム思考を通して観ることが重要だと思うんです。願わくば、すべての人が必要なものを得られる、公平な世界を理想としています。この作品が「何か意味のある映画を作っても利益を上げられる」ということを証明できつつあると感じています。
竹田
今日お話を聞いていて、すべての核心は「共感」にあるような気がします。SNSでは、共感やコミュニティという観点からこの映画をどう観るかという言説が多く起きています。個人化された超資本主義社会で、私たちの心を豊かにしてくれるものは、「共感性」なのだと、改めて考えが深まりました。
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』はなぜ、アメリカで現象となったのか
文・竹田ダニエル
長く残り続けた衣服に美学を感じ、「応用考古学」と称して過去の遺物を蘇らせることで未来の考古物を発掘する「誰もアジア系の映画なんて観たくない」と揶揄されてきた中で、A24史上最高の収益を記録した本作。しかもほとんどの観客は口コミとリピートで足を運んだという意味でも驚異的な作品である。
人生の後悔を抱え、確定申告で四苦八苦する主人公が「パラレルワールドの自分・家族の人生」を冒険し、「過去と今」と向き合いながらマルチバースを救うミッションを課されるという、とにかく説明しづらいストーリー。本国では、カンフー・ファンタジー映画として売られていたが、実際の中心的テーマはアジア系アメリカ人の移民家族が抱える複雑な葛藤で、クィアな人や親と世代の差等で悩んでいるようなマイノリティの視聴者に直接響くように作られている。
つまり「マイノリティのあるあるをアクションとファンタジーとミックスし可視化」したことが大きな功績なのだ。さらには、低予算をカバーするアイデアも秀逸。セットを必要とするシーンはほとんどコインランドリーとオフィスで完結、それ以外はVFXやショッキングな場面転換で補っていることも、映画業界をざわつかせた。大手ヒーロー映画のような莫大な予算がなくても、クリエイティブな発想と本質的なテーマが魅力になっているのだ。
「トリッピーなマルチバースSF系映画」という一言では到底表せない、全宇宙が詰まったような作品。オマージュだらけのアクションシーン、ホラー的な緊迫感、泣ける恋愛回想、ほっこり家族団結……さらに監督の移民2世としての葛藤やADHDの症状体験も作品のもとになっている。「親に理解されない子供」と親が向き合い、最終的には「子供に謝罪する親」系の映画は、「トレンド」と言ってもいいほどメインストリーム化しつつある。
特に移民やLGBTQなど、「アウトサイダー」の物語に共感する若者の台頭によってそんな新たな市場が生まれている。アジア系の俳優が世界レベルの映画界で活躍する道のりを作った『クレイジー・リッチ』や『パラサイト 半地下の家族』『ミナリ』などに続く「社会現象映画」と言って間違いないだろう。日本公開を楽しみにしてほしい。