死者の日に、メキシコの町中のあちこちに作られる祭壇や、タイの市場のディスプレイなどを見ると、たくさんのものが圧縮されたようにぎちぎちに並べられていて、色数も多く派手なのでちょっとくらくらする。しかしそれがイヤな感じなのではなく、全体としてきれいと思えるところにいつもってしまうのだ。前にサンタフェの〈インターナショナル・フォークアート・ミュージアム〉に行き、チャールズの盟友、アレキサンダー・ジラルドの郷土玩具コレクション展示を見た時も、似たような感想を持った。
これは日本人がいちばん不得意としている分野なのではないだろうかというのが、僕の説だ。茶の湯のセンスがどこかに入っているからなのか、日本ではどちらかというと引き算の美学が良いとされているけれど、彼の国やジラルドは足し算こそが美しいと考えているように思うのだ。
イームズハウスは日本建築の影響を受けているとよく言われている。だが、少なくともチャールズとレイが家を飾るセンスについては、足し算である。スタジオ棟で『Toccata for Toy Trains』を撮影している様子を捉えた有名な写真などを見ても、2人は膨大な量のおもちゃに囲まれて嬉しそうに微笑んでいる。さて、何かを置くのにちょうどいいスペースをどこかに見つけては、いそいそと小物を並べ始めるレイおばあちゃんの姿を想像してみようか。
おいとまをする前に。
おいとまをする前に、僕はチャールズおじいちゃんとレイおばあちゃんに告白しておかなくてはならないことがある。
リビングのプランターの脇に黒い木彫りの鳥があるのを見つけた。ワイヤーメッシュチェアがハーマンミラーから発売された際に、広告用写真の撮影で使われた小道具として知られる鳥。もともとはチャールズとレイのコレクションで、アパラチアあたりで昔から作られていた民芸品である。何年か前にそのレプリカが「イームズハウス・バード」と銘打たれて発売された。もし天国にいるチャールズとレイが、もともとは誰が作ったとも知れないフォークアートに自らの名前がつけられることを聞いたら、喜ぶはずがない。わざわざパシフィック・パリセーズまで来なくたって、そんなことは少し考えればわかることだ。それなのに、僕は即座にレプリカを買ってしまったのだった。
帰りたくなくて駄々をこねる孫のように床に座り込み、何かを見忘れていないかとキョロキョロした。どこに目を向けても必ず面白いものにぶつかるから、その情報量の多さに圧倒される。
かつてチャールズは「情報の時代が終わったら、次は選択の時代だ」と言った。チャールズとレイにとって、今僕の目の前にあるものはすべて彼らの選択の結果である。優れた選択というのは、本当に豊かな情報と思索の種を含んでいるのだと、改めて教えられた。