誰もやらないことをやった山田太一と向田邦子
文・頭木弘樹
かつてテレビドラマの脚本家は、注目を浴びる存在ではなかった。原作を脚色する仕事が多く、オリジナル脚本を書かせてもらえる機会も少なかった。「ライターの名前など新聞のテレビ欄にもほとんどのらず、役割りの大きさに比べて収入も低く屈辱的な扱いが一般的であった」と山田太一も書いている(『山田太一作品集3 男たちの旅路1』/大和書房)。

川崎市の自宅にて。執筆は2Bの鉛筆で。プロットは作らず、セリフは声に出しながら書く。読書が一番の趣味だったと次女の佐江子さん。©朝日新聞
それを大きく変えたのがNHKドラマだ。山田太一オリジナル脚本の『男たちの旅路』(1976〜82年)がその最初の作品。1976年2月28日、第1回の放送の冒頭で「山田太一シリーズ」と脚本家の名前が大きく映し出された。画期的なことだった。ここから脚本家の時代が始まる。
『男たちの旅路』は警備会社を舞台に、特攻隊の生き残りの吉岡司令補(鶴田浩二)と戦後生まれの若者たち(水谷豊、桃井かおりほか)の考え方、生き方のぶつかりあいを描いて大ヒットした。視聴者からたくさんの手紙が届き、それらをまとめた冊子が何冊も作られるほどだった。
なかでも、老人たちが都電をジャックする意外な展開で老人問題を描いた第3部第1話「シルバー・シート」は、第32回芸術祭ドラマ部門大賞を受賞した。障害者の問題に真っ向から取り組んだ第4部第3話「車輪の一歩」は、「人に迷惑をかけることを怖れるな」というセリフが世の中に衝撃を与え、今でも障害者関連のニュースでよく言及される。
向田邦子は山田太一より5歳上で脚本家としても先輩だが、75年に大きな病気をし、「自分で書きたいものを、きちんと書きたくなったの」(『テレビの時間』大山勝美著/鳥影社)と、そこからシリアスドラマを書き始める。

『あ・うん』の撮影現場にて。遅筆だったためスタッフをやきもきさせることも。後年は『父の詫び状』など小説でも文才を発揮した。©朝日新聞
その最初の作品『冬の運動会』(77年/TBS)について、「私、オチがつかなくてすむ、どこかで笑わせなくてもいいドラマを初めて書いたんです。お手本は『それぞれの秋』(73年/TBS/山田作品)でした」と向田邦子自身が山田太一との対談で語っている(77年7月30日/東京新聞)。この対談がふたりの初めての出会いで、以後、お互いの作品について感想を伝え合うようになる。
向田邦子は72年に『針女』『桃から生まれた桃太郎』というドラマをNHKで書いているが、その2本だけで、他はすべて民放だった。そんな向田邦子に声をかけたのが、『男たちの旅路』のプロデューサーの近藤晋。まずは松本清張の『駅路』の脚色。そうして土曜ドラマ『最後の自画像』(77年)が生まれる。和田勉の素晴らしい演出もあり、高い評価を受ける。
そして79年、「向田邦子シリーズ」として『阿修羅のごとく』が放送される。性格も生き方も異なる四姉妹が、老齢の父親の不倫と隠し子の存在を知って、気持ちを大きく揺さぶられる。今度も和田勉の演出。ホームドラマなのにトルコの軍楽隊が演奏する行進曲「ジェッディン・デデン」がテーマ音楽に用いられている。
これに山田太一は感嘆し、「テレビドラマの音楽で、これほど突飛でこれほど秀抜な効果を上げた例を他に知らない。私にとってこの曲は『阿修羅のごとく』と不可分で、耳にすると抗がいようもなく加藤治子さん、八千草薫さん、いしだあゆみさん、風吹ジュンさん、佐分利信さんの映像が甦ってしまう。向田さんの仕草や声音が間近をかすめるような気持になる」と書いている(『月日の残像』/新潮文庫)。
『阿修羅のごとく』は2003年に森田芳光監督によって映画化され、25年には是枝裕和監督によってNetflixでリメイクされた。
『阿修羅のごとく パートⅡ』の放送が始まった1980年1月、山田太一脚本の大河ドラマ『獅子の時代』の放送も始まる。歴史上の有名人ではなく架空の人物が主人公で、原作小説もなく脚本家オリジナルというのは、大河ドラマでは初めてのことだった。薩摩藩郷士の苅谷嘉顕(加藤剛)と会津藩の下級武士の平沼銑次(菅原文太)というふたりの人物を通して、明治維新を勝者側と敗者側から描いた。
向田邦子からこんな電話があったと山田太一は回想している。「NHKで『獅子の時代』という一年間の仕事をしていて、どうもはじめはうまく行かず、なんとも苦しい時期をすごし、漸く格好がつきかかって来た時、すかさず『ぐんとよくなったじゃない。もう大丈夫よ』と電話を下さったのが忘れられない」(山田太一「初対面のことなど」『向田邦子TV作品集4 家族熱』/大和書房)。
同じ80年の3月からNHKの「ドラマ人間模様」という枠で、向田邦子の『あ・うん』が始まる。代表作であり、最も人気のある作品と言ってもいいだろう。舞台は昭和初期。しがないサラリーマンの水田仙吉(フランキー堺)と戦争成金の門倉修造(杉浦直樹)は、性格も見た目も正反対だが、戦友であり無二の親友だ。
水田の娘(岸本加世子)は、門倉のおじさんが母に好意を抱いていることを感じ、父と母も気づいているのではないかと思うが、微妙な関係を崩さないよう、誰もそのことを口にしない。水田の父はそれを「神社を守っている狛犬の阿(あ)と吽(うん)だ」と言う。
先に引いた東京新聞の対談で山田太一脚本の『岸辺のアルバム』(77年/TBS)について「杉浦直樹さん(ヒロインの夫)いいですね。抜群ですね」とほめていた向田邦子は、このドラマでも杉浦直樹を起用している。トマゾ・アルビノーニ作曲の「弦楽とオルガンのためのアダージオ」がテーマ音楽に用いられ、これがまた見事にはまって、ノスタルジックな魅力を高めている。演出は深町幸男。
この年の7月、向田邦子は小説で直木賞も受賞した。翌年には『続あ・うん』が放送された。さらに続きが書かれるはずだったが、残念なことに向田邦子は81年8月22日、飛行機事故によって51歳の若さで亡くなった。
82年、「向田邦子賞」が制定される。その年度の優れたテレビドラマの脚本家に与えられる賞だ。その第2回を山田太一が受賞する。受賞作はNHKで放送されたドラマスペシャル『日本の面影』(84年)。演出は『男たちの旅路』と同じ中村克史。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の半生と人物像がじつに魅力的に描かれている。日本を深く愛し、それだけに、変わっていく日本に苦悩したハーン。その姿を通して、近代化のなかで日本が何を失ってきたかに気づかされる。
授賞式で山田太一は「現代では合理的、機能的なものが大変重要視されているけれども、不合理な、役に立たないものへの敬意も必要なんじゃないか」と語っている。劇中劇として「むじな」「幽霊滝の伝説」「雪女」「耳なし芳一」の4作品も登場する。『ウエスト・サイド物語』で踊っていたジョージ・チャキリスが意外にも小泉八雲にぴったりで、檀ふみの小泉セツもはまり役で、この夫婦の姿がずっと心に残っている視聴者も多いようだ。
山田太一は、老人を主人公としたドラマをつくることが若いころからの念願だったが、NHKで『ながらえば』(82年)、『冬構え』(85年)、『今朝の秋』(87年)と笠智衆三部作を実現させる。『ながらえば』は第23回モンテカルロ国際テレビ祭最優秀演出賞を受賞。『冬構え』『今朝の秋』の演出は、『あ・うん』の深町幸男だ。
99年の『いちばん綺麗なとき』という山田太一ドラマには、『阿修羅のごとく』にも出ていた八千草薫、加藤治子が出てくる。2年と少し前に夫を亡くした女性(八千草薫)のところに、突然、見知らぬ男(夏八木勲)がやってきて、「女房は、御主人と、つき合っていました」と言い出す。
そして、2014年の『ナイフの行方』が山田太一のNHKでの最後の作品となった。制作統括は近藤晋。通行人をナイフで刺そうとした若者(今井翼)の脚を、老人(松本幸四郎)がわざと折り、その怪我が治るまで自宅に住まわせようとする。最後まで意欲的な作品を書き続けた。