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犬と生き、犬を書き、犬を読む。 作家・小川洋子の「犬と文学」

犬と人間の関わりを描く物語は、出会いや別れ、発見や衝突とお互いに影響し合う姿が笑いや涙を誘う。犬という不思議な生き物にまつわる本を、作家と書評家が選書。どの本も犬をより尊く、愛すべき存在へと近づける。

Photo: Hideaki Hamada (THYMON.Inc) / Text: Akane Watanuki

小鳥や猫、コビトカバや象。小川洋子の小説ではたくさんの生き物が描かれる。特に犬への温かい眼差しは、小川作品の読者にとって馴染み深いものだ。そこには現実に犬を飼っていた者の、実感としての親愛の情が読み取れる。

「うちの犬はラブといって、息子が8歳の時に家にやってきました。その頃、『ラブの贈りもの』という盲導犬の仔犬ラブを育てるパピーウォーカーのテレビドラマが放映されていて、それに影響されたんです。近所のペットショップに見に行った時に、息子と誕生日が同じという偶然も重なって、もうこれは飼うしかない、と。

ラブは常に元気いっぱいでやんちゃだったから、家の中はぐちゃぐちゃ。当時は一頭の生き物を目の前にして家族が悪戦苦闘していました。小川家の歴史を振り返ると、幸せな時代だったなと思います」

何もかもが予定通りにいかない、計画を立てても無意味という徒労感に耐える。犬を飼うのはそういう修業でもあった。それは子育てに似ていて、自分がいないとこの子は生きていけないという責任感をもたらし、ただ静かに暮らしているだけではわからないことを経験させてくれた。

「晩年は足が弱ってしまいましたが、ラブは全然こたえていなくて。最期は家族が揃っている時に亡くなりました。結局赤ん坊を育てる経験から老いて死ぬことまで人間の一生を丸ごと教えてくれたような気がします」

小川さんはラブを飼うことで、犬が出てくる文学に優しい眼差しを向けるようになったという。文学の中でいかに犬が重要な役目を果たしているかを身をもって理解できたし、犬が素晴らしく描かれている文学に対して、尊敬の念が深まった。

「言葉が通じないものと心を通わせる、ということをラブから教わりました。小説は言葉で成り立っていますが、実は言葉では通じないものの方が大切で、それを人は言葉で表現しようとしている。私が数字やチェスなどの、言葉を使わないコミュニケーションに惹かれていくきっかけは、犬だったと断言できますね」

小川作品に物言わぬ生き物が現れ始めたのはこんな経緯があったのだ。

少年が大人になる過程には
犬という相棒が必要

犬が大事な役割を務めている小説をリスペクトする小川が、今回セレクトした4冊は、主役脇役問わず、どれも犬の存在感が光っている。

「『まぼろしの小さい犬』、『おわりの雪』、『若き日の哀しみ』は、犬と少年という鉄板の組み合わせの3冊です。男の子が少年時代を終えて大人になるのに、さなぎの時期を乗り越えて羽ばたいていく。その時、犬がそばにいることがどれほど少年の心や成長の支えとなるかを描いています。犬という生き物はそのために神様が遣わしたんじゃないかとさえ思えてきます」

作家・小川洋子の選書本
左から『まぼろしの小さい犬』フィリパ・ピアス著 猪熊葉子訳/誕生日に祖父に犬を買ってもらえなかったベンは、空想の中でチワワ犬チキチトを飼い始める。勇猛果敢で忠実な彼と楽しい時間を過ごすが、後日贈られた犬がチキチトではないことに困惑する。岩波少年文庫/¥760。
『おわりの雪』ユベール・マンガレリ著 田久保麻理訳/トビを買いたいがために、動物を始末する仕事を請け負う少年。葛藤を抱え、死の床にある父親に日々想像上のトビの話を聞かせ続ける。空想する力、物語を作る力で彼は苦難を乗り越えていく。白水Uブックス/¥950。
『若き日の哀しみ』ダニロ・キシュ著 山崎佳代子訳/母親と田舎で帰らぬ父を待つアンディ。彼の傍らにはいつも犬のディンゴがいた。孤独と悲しみがお互いを結びつけていたが、やがて別れが訪れる。静謐な筆致で、戻らない少年時代を哀切に語る。創元ライブラリ/¥900。
『ダーシェンカあるいは子犬の生活』カレル・チャペック著 保川亜矢子訳/愛犬が産んだ小さなダーシェンカ。仔犬が成長し別の家にもらわれていくまでを、著者が時には私たちに、時には仔犬に語りかける犬エッセイ集。メディアファクトリー/品切れ。

『まぼろしの小さい犬』は、この春の文庫化にあたり小川さんが解説を担当した児童書で、誕生日に犬を買ってもらう約束を反故にされた少年が、想像で犬を飼い始める物語。

「現実の犬を買ってもらえないので、彼は目を閉じた時にだけ現れる幻の犬とずっと対話をしています。彼の友達はその幻の犬だけ。目を閉じることで実在の世界を拒否しているんです。でも最終的には幻の犬と別れることで大人へと成長する。少年が大人になることがどんなに難しいことかを痛感させられます」

『おわりの雪』の主人公は、とても貧しいけれどトビを買いたいと願う少年。そのお金のために養老院で老人の散歩に付き添うアルバイトをするが、不要だと持ち込まれた猫や、院内の亡くなった老女の飼い犬を始末するというきつい仕事を頼まれる。

「鳥を買うお金のために、彼は犬を捨てに行くという壮絶な体験をします。さらにこの小説が素晴らしいのは、そうまでして欲しかったトビが、実は幻だったのではと思わせるところ。決して手に入らないものを彼は求めていた、とも読める。少年が大人になるのには、そういう残酷な体験や大人との交渉、死にゆく父との時間など、綺麗事では済まされないいろいろなものがある。それがこの小説には詰まっているんです」

父を収容所に連れていかれ、母と暮らす『若き日の哀しみ』の少年も、犬を相棒に牛の番の仕事をしている。しかし大事な雌牛が1頭行方不明になり、犬とともに森へと探しに行く。

「彼は空想を巡らせる。自分は責任を取ってこの森に隠れて一生暮らす。もしお前だけが戻れば、ママは心配して倒れてしまうだろうから、お前も一緒に旅に出るんだ、と犬に語りかけながら、おとぎ話のような世界に入ってこの試練を乗り越えようとします。その絶望の中で彼の支えになるのは犬だけです。空想によって自分を励ますという力で、この子はこの先を生きていけるだろうという希望を抱かせてくれる小説です」

ラストで犬の本当の飼い主が、少年にものを書く力があることを見抜いて、この出来事について作文を書きなさいと勧める。少年が大人になる時は、犬のような動物や、祖父とか先生とか少し距離のある親ではない大人、そういう家族以外の手助けが必要なのだとわかる。

変わって、『ダーシェンカ あるいは子犬の生活』は犬のエッセイのスタンダード。さまざまなバージョンがあるが、メディアファクトリー版はデザインが素晴らしい。
「大好きな本で、もう何度も読み返しています。イラストが可愛くて写真も素晴らしい。1930年代のチェコスロバキアでこんな文章と写真と可愛いイラストを使って、しかも犬というものの本質を鋭く突いた文学があったことが驚きです」

犬、それは言葉を持たない動物。
謎めいていて、でも心が通い合い、作家のアンテナを刺激するのだ。

作家・小川洋子