2軒目へと流れる街、福岡は春吉。ほのかな灯りに照らされたレコードジャケットに誘われ、薄暗い階段を恐る恐る上がると、〈デラシネ〉はある。入り口には表札代わりにこんな注意書き。「履物はここでお脱ぎください」。そう、〈BAR デラシネ〉は土足厳禁のレコードバー。
恐る恐る中を覗くと、そこはお茶屋のような低いカウンターを持つお座敷スタイルで、DJブースもなく、使い込まれたMICROのターンテーブルがぽつんと一台。
薄暗い店内はまるで、ジョニ・ミッチェルの『BLUE』のジャケットのような陰影で、佐橋佳幸と小倉博和によるギターデュオ、山弦が木造建ての和空間を包み込むようにつつましく鳴っていた。人の位置が低いと妙に落ち着くから不思議だ。
店主の深田祐規さんは〈MARTHA〉〈Bar Pain〉など、業界人の裏も表もが集う新宿三丁目界隈ではガジロウさんと慕われ、名を馳せた名物マスター。母親の病気を機に三丁目を離れ、各地を転々。酒場生活30周年を迎え一時引退。その後は釣りに明け暮れる日々を送ったが、酒場の魅力には抗えず復帰、ここ福岡に行き着く。まさにデラシネ(根なし草)だ。
圧倒的な音楽の知識とレコードを所蔵する深田さんだが、ここ〈BAR デラシネ〉ではことさらに主張せず、心地よさを得るための脇役のようだ。
「その昔は『今かかっている曲を黙って聴け』って感じのストロングスタイルでしたけど、さすがにね。従来のレコードバーというスタイルに飽きてたのもありますね。バーテンダーとして音楽でしかつながらないお店はもう嫌なんですよ。あくまでさり気なく」
たしかにミキサーもなければ、ムードさえ決まれば、掛け流しもある。とはいえ、カーネギーホールの音響を再現して作られたとも言われる、稀代の名スピーカー〈BOSE 901〉から流れる情感豊かな音は、お店のチャームでもあり、このお店で聴くジョニ・ミッチェルの『BLUE』は生音の再現性もあって唯一無二だ。「CALIFORNIA」のイントロの端正な響きはいまだに耳に残っている。
「お客さんの嗜好とか、選曲のつなぎとか細かいことは気にしなくなったとはいっても、やっぱり音楽は会話のきっかけになりますから。新宿三丁目時代『お前のお店はお前が喜ぶだけだよね』といわれましたが、たしかにそうでしたね。でも今は、家に帰る前のささやかなワンクッションになってくれればうれしい。いい酒といい音楽を愉しんで、「じゃ、また来るわ」って感じがいいんですよ。それが僕が酒場を続ける理由なのかもしれない」
リスニングバーを極めて行きついた理想郷。福岡にいるなら仕事から家に帰る前のワンクッションに、旅をしている方なら帰路に就く前夜、名残惜しさを抱えて立ち寄ってほしい。