鉱山労働者のために作られた
ヘビーデューティな作業着
1848年に鉱山で金鉱が発見されたのを皮切りに、ゴールドラッシュに沸いた夢のカリフォルニアで、米西海岸を拠点にしていたリーバイ・ストラウス社は、一攫千金を目指す採掘者のために綿帆布製のワークパンツを考案。やがて補強用の銅製リベットをポケット部分に打ち付け、1890年代に501の品番を発表した。
1900年初頭まではあくまで作業着メーカーのうちの一社。1920年代頃のカウボーイブームにより大衆へと普及したものの、ファッションと呼ぶにはまだまだ遠い存在だった。大転換が起こるのは、それから約30年後のことだ。
労働者用のウェアから
反逆児のドレスコードへ
喧嘩に明け暮れるバイカーを描いた映画『乱暴者』(53年)で、主演を張ったマーロン・ブランドのとびきりクールな着こなしが全世界に衝撃を与えた。ジーンズにアウトローの烙印を押すことになってしまったが、誰もがショットのワンスターと501®を真似てモーターサイクルにまたがり、轟音とともに街を駆ったのだ。この作品を契機に、ファッションとしてジーンズが一気に動きだすことになる。
デニムスタイルで50年代に一世を風靡したロカビリー界のレジェンド、エディ・コクランも501®発展に貢献した一人。常にジーンズでステージに上がったエディは、後のザ・ビートルズにも多大なる影響を与えることになる。文学界でビートニクが花開いたのもこの頃だ。56年、アレン・ギンズバーグが問題作『HOWL』を刊行。
ジーンズとシャツ姿で破壊的な詩を朗読した彼もまた、マンハッタンの若者から支持され、後のヒッピーから神のように崇拝された。この3人を筆頭にしたカリスマの出現が、501®とカルチャーの関係をリンクさせ、70年代の抵抗文化にジーンズという潮流を作ったのだ。
古い価値観に異を唱えた
ロックスターのユニフォーム
“ベトナム”への厭戦感が沸点に達していた60年代末。若者たちは愛と平和を謳い、仲間とともに自然回帰を願った。ビート文学の系譜に連なる彼らはヒッピーと呼ばれ、自由な発想でジーンズを解体し、ワッペンや手刺繡を施して個性を主張。
69年に開催されたウッドストックフェスティバルでは、独自性溢れるド派手なブルージーンズを穿いた聴衆が、ジミ・ヘンドリックスのノイジーなアメリカ国歌に酔いしれた。
同年に大規模なフリーコンサートを開催したローリング・ストーンズも、ジーンズ史を語るうえで避けては通れない。アンディ・ウォーホルがアートワークを担当した69年録音の名盤『Sticky Fingers』のジャケットでは、ロックとの蜜月を直球で表現。ウォーホルもまた、ブラックデニムの愛用者として広く知られている。
大西洋を挟み、60年代から70年代にかけてパリで活躍していた奇才セルジュ・ゲンスブールも、ジーンズにバレエシューズを合わせ、セクシーな歌声と性的な作風で、黄色い声援と世の顰蹙をかっさらっていた。時を経て、ベトナム戦争への閉塞感は、84年にブルース・スプリングスティーンが叫んだ「BORN IN THE U.S.A.」により終焉を迎え、ジーンズは新たな軌道に乗ることになる。
大衆映画で明確になった
王道としてのポジション
80年代中期に入ると、リーバイ社のマーケットは、世界標準に到達。85年に爆発的なヒットとなった『バック・トゥ・ザ・フューチャー』をはじめ、『フットルース』(84年)など、アメリカのリアルなストリートを表現するうえで、ジーンズは不可欠な存在になっていた。
ヨーロッパでも、89年のベルリンの壁崩壊の時に若者たちが穿いていたのは紛れもなく501®で、ワールドワイドで見ても、スタンダードとしての立ち位置が不動のものとなっていたことがわかる。東京にも古着ブームで大量のヴィンテージ品が輸入され、より身近な存在になっていた。
第2次プレッピーやサーフブーム、DC、渋カジというトレンドやスタイルに合わせ柔軟に変化していった501®。90年代のストリート系ファッションでは、NY発信の白人ヒップホップグループ、ビースティ・ボーイズやエミネムなどの影響力のあるラッパーが音楽シーンを牽引し、オーバーサイズをルーズに着こなした彼らの存在が、ジーンズ興盛の後押しになった。
そして2013年、
新しい501®が解禁
「もしできることなら私がブルージーンズを発明したかった」とは、イヴ・サン=ローランが生前に残した言葉だ。発明というフレーズを選んだのは、アウトサイダーから大統領まで穿く万能ボトムスはほかに存在しないからだろう。時代に即したアップデートで進化し続けるオーセンティックジーンズ。己のスタイルを貫き、変革期をリードした男たちのプライドを引っ下げ、この春、名品番は新たなシルエットで生まれ変わる。