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「がんを精神的な探求だと捉えていた」。振付家ダミアン・ジャレだけが知っている坂本龍一

アーティストに愛されるアーティストだった坂本龍一。現代美術の巨匠から中国の若手バンドまで、分野も年代もさまざまな彼らは、坂本とどんな会話を交わし、何を受け取ってきたのか。世界中の才能たちに、「わたしだけが知っている坂本龍一」を聞きました。Messengerで10年間会話を続けた振付家、ダミアン・ジャレが知る坂本龍一とは?

本記事は、BRUTUS「わたしが知らない坂本龍一。」(2024年12月16日発売)掲載の内容を拡大して特別公開中。詳しくはこちら

photo: Hiroyuki Takenouchi / text & edit: Sogo Hiraiwa

アーティストのマリーナ・アブラモヴィッチや名和晃平と舞台作品を共作し、ルカ・グァダニーノの『サスペリア』やポール・トーマス・アンダーソンの『ANIMA』など映画の振付を担当する異才のコレオグラファー、ダミアン・ジャレ。彼は坂本龍一の10年間にわたる(Messengerでの)文通仲間だったそうで——。ふたりが交わした会話の内容や創作への影響を知るべく、パフォーマンスの上演で福岡に来ていたダミアンのもとを訪ねた。

——坂本龍一さんとはどのように出会ったのですか?

ダミアン・ジャレ(以下ダミアン)

2005年に大阪で、友人のクリスチャン・フェネスとライブをしているのを観たのが最初でした。フェネスのガールフレンドがその前日に京都で上演した僕のパフォーマンスのメインダンサーだというので、彼女が誘ってくれて。終演後に、楽屋で坂本さんと挨拶をしました。京都でのパフォーマンスを観ていた浅田彰さんが僕を紹介してくれたんです。

——なるほど。

ダミアン

その後、面白いことが起きました。8年後の2013年、私はシディ・ラルビ・シェルカウイと創作した『バベル』を韓国で上演していたのですが、休憩に入ったカフェで、この作品を日本で上演できたらいいな、なんて考えていたら、突然「戦場のメリークリスマス」が流れてきて。咄嗟に坂本さんのことを思い出しました。彼がその曲を演奏していた8年前の夜のことを。

それから、ちょうど1週間後、坂本さんからMessagerで連絡が届いたんです。『バベル』を『札幌国際芸術祭』に招聘したい、と。そこから、僕たちの10年間にわたるメッセージの交換が始まりました。

——『札幌国際芸術祭 2014』は坂本さんがゲストディレクターを務めたんですよね。『バベル』招聘にはそんな経緯が。

ダミアン

『札幌国際芸術祭』はアートのフェスティバルなので、パフォーマンス作品が上演されること自体、珍しいんです。札幌で『バベル』のようなコンテンポラリーダンスが上演されるのは初めてだったとも後で知りました。坂本さんは新しいことを推し進めていくパイオニアだったんです。

残念なことに、僕らが札幌に入ったタイミングで坂本さんは最初のがんが見つかり、生で僕らの公演を観ることは叶いませんでした。再会できたのも1〜2年後、彼が回復してからでした。

——坂本さんとはどんなお話をされたのでしょう?

ダミアン

坂本さんからはアートや音楽について、多くのことを学びました。また僕にとっては、日本文化のガイド役でもありました。勅使河原宏の映画や縄文時代の儀式、修験道について。あるいは、沖縄とバリ島の音楽にはたくさん共通点があること。諏訪大社で6年ごとに執り行なわれる御柱祭を紹介してくれたのも坂本さんでした。

この儀式は僕の最も強力な作品である『Skid』と『THR(O)UGH』のインスピレーション源になっています。『Skid』は御柱祭に着想を得て、山の比喩として舞台上に34度の傾斜を設置した作品、『THR(O)UGH』はトンネルを舞台装置として用いた作品です。

——山もトンネルも、精神的な苦行や困難のメタファーといいますか。

ダミアン

坂本さんはよく、がんをある種のビジョン・クエスト(精神的な探求)として捉えている、と話していました。これを機に自分を変容させたいんだ、と。彼は本当に生きたかったのです。そして、それには根本的な変化が必要だと理解していた。そうやって坂本さんは、儀式や人生がいかに脆いものであるかを理解することに強い関心をもつようになったのだと思います。

——そうした坂本さんとの対話が『Skid』と『THR(O)UGH』の着想源になった。

ダミアン

この時期、僕らふたりは死に近づいていた。そのことが坂本さんと僕を結びつけたのだと思います。2015年、僕はパリで起こったテロ事件の現場に居合わせました。テロリストのすぐ隣にいて、命からがら生き延びたのです。『THR(O)UGH』は坂本さんが教えてくれた御柱祭にインスパイアされ、同時にテロ事件の経験とも結びついているんです。

——ああ、なるほど。

ダミアン

坂本さんは事件後、真っ先に連絡をくれました。テロの影響から僕が沈んでいる時期には、ジル・デルマスと共同制作していた映像作品『ザ・フェリーマン』の音楽も作曲してくれて……。

——そうだったんですね。

ダミアン

作曲に関していえば、『Vessel』というパフォーマンスの音楽も作曲してくれましたし、ヴィラ九条山のアーティスト・イン・レジデンスに参加する際も、申請において尽力してくれました。名和晃平さんとのコラボレーションのきっかけをつくってくれたのも坂本さんでした。

10年間の濃密なやりとり

——名和さんとはその後濃密なコラボレーションを続けていらっしゃいますね。アーティストをお互いに紹介するようなことはあったのでしょうか?

ダミアン

そうですね。僕からは、ビョークやルカ・グァダニーノを紹介しました。ルカを坂本さんに紹介したのは、『サスペリア』に振付で参加していたとき。ルカは『君の名前で僕を呼んで』でも坂本さんの音楽を使っていたけれど、その時点ではふたりは面識がなかったんです。ビョークとは坂本さんとARCAと一緒に食事をしたこともありました。

——映画についてはどんな会話をされましたか?

ダミアン

僕が振付で参加したポール・トーマス・アンダーソンの『ANIMA』については、感想を事細かく伝えてくれたのを覚えています。『サスペリア』の公開時もすぐにMessengerで感想を送ってくれました。鋭い目をもっていましたね。『サスペリア』にカメオ出演をしている僕に気づいたのは、坂本さんだけでした。

——Messengerでは他にどんなやりとりをされたのでしょう。音楽の話もされましたか?

ダミアン

そうですね。音楽的教養をずいぶん広げてもらいました。坂本さんはベルギーにいる僕の友人のミュージシャンのことが気に入っていたのが面白かったですね。その人物はそれほど有名ではなく、よく知っているなと驚きました。それから、僕が『THR(O)UGH』をドイツのダルムシュタットで制作していると伝えたら、ダルムシュタットがルチアーノ・ベリオをはじめとした現代作曲家たちにとっていかに重要な場所かを教えてくれる、なんてこともありました。

——坂本作品のなかで、最も印象に残っているものは?

ダミアン

ひとつに絞るのは難しいですね。出会ってからつくられたすべての作品が、僕にとって特別な作品だからです。たとえば『async』には、先ほど話した、彼という人間の“根本的な変容”が表現されている。ドキュメンタリーの『CODA』も好きですね。最初のがんのサバイバーとして10年間生き抜いた坂本さんの不屈の精神が表れていて、感動しました。ただ、彼の音楽的な好奇心は旺盛で、その後もさまざまな可能性を探り、実験することを恐れなかった。その好奇心は比類のないものでした。

——若い世代に坂本さんが残した作品をどのように経験してほしいですか?

ダミアン

実践を通じてしか発見できないものを発見し続けたこと。それがアーティストとしての坂本さんの特異な点です。彼はいくつもの山を登りました。極めて繊細な感性の持ち主でしたが、同時にさまざまなものに開かれた存在でもあった。アクティビストの視点をもち、more treesのような活動をしていた。人類が世界に対してもつ破壊的な関係を探る勇気があり、問題を提起し、時には人びとが聞きたくないことも発言しました。坂本さんは優しき戦士でした。自分のもつメディアを通じて人びとのあり方を変えようとする意志をもっていましたから。

——あなたにとって坂本さんはどういう存在でしたか?

ダミアン

友人であり、またマスター(師)でもありました。ただし、なんでも知っていると装うようなマスターではありません。坂本さんは人生を通じて学び続け、人間であるとはどういうことか、自分がどう貢献ができるのかを考え続けていました。彼と出会えたことに、本当に感謝しています。僕らは長い時間をかけて話し合い、その会話が、僕のアーティストとしての考え方や創作法を高いレベルに引き上げてくれたんです。偉大な先人。灯台のような存在でした。

人生でこれほど重要と思える人に出会うことは稀です。僕は多くの著名なアーティストと協働してきたけれど、坂本さんのように特別な瞬間に常に寄り添ってくれた人は多くはいません。今でもこんなに感情的になってしまうのは、坂本さんが物事に対する僕の認識を根幹から変えた人だからです。

2013年から始まったふたりの長い対話の断片。絵文字が飛び交うこともあれば、縄文時代など日本文化についてのやりとりでは本や資料のスクリーンショットが届くこともあったという。