ないがしろにされている声に、耳を傾ける
「日本では悲しいことに、育児、介護、看護など私的・公的な場面を問わずケアの価値がないがしろにされ、自分のことは自分でするという”自助”思想が広がっています。“セルフケア”や“主体性”などと言葉が美化され、中でも“ケア”は最も都合よく使われていると感じていました。
ケアは生活を支える重要な仕事なのに、当然のこととして扱われ、個々人で責任を負う形になっている。それは各人の経済状況などを無視した特権的な思想で、公助に頼らざるを得ない大勢の人たちを見過ごしてしまいます。個人の問題に押し込められてしまう前に、社会の問題としてケアのあり方を考えるべきではないか、と声を上げるためにこの本を書きました。世界的な危機を迎える今、その考えは国境を超え、惑星的な広い視点が必要です。そのために海外文学から日本文学まで、幅広い作品を扱うことを意識しました」
研究書に限らず、小説など文学作品からも考察しているのが本書の特徴。中でも、小川が大きなインスピレーションを受けた作家が2人。ケアの倫理の提唱者である米国の心理学者キャロル・ギリガンと、近年再評価が高まっている20世紀前半の英国の作家ヴァージニア・ウルフだ。
「ケアは相手を思いやるばかりで主体的に生きられず、“自己犠牲的”だと批判的に捉えられることもありますが、ギリガンは肯定的に見ていました。他者の声に注意を払い、共感することができるケア精神は、様々な場面で他者との結びつきが必要な共存社会において“強み”になると論じました。
ギリガンの思想のルーツにあたる人物が、ウルフです。ウルフは個別化された自己を否定的に描き、他者の気持ちを汲んで葛藤を抱える主人公を数多く描きました。おそらく、自身もセクシュアルマイノリティであり精神疾患もあったことから、あらゆる属性の人に目を向けることができたのだと思います。そこには、ケアする側とされる側の物語が交錯し、他人も労りながら自分も大事にするという多面的なケアのあり方が示されていました。
また、彼女は戦争の渦中にあり、スペイン風邪の流行など不穏になっていく世界を生きました。まさに現代に通ずる体験をし、その時代の反省を執筆した人。だからこそたっぷり論じたいと思っていました」
文学は、想像を促すために
東京オリンピックやこども家庭庁など現代の事象と文学作品を結びつけながら、1年以上かけて考察。見えてきた「ケア」の根底にあるもの、それは想像力ではないかと話す。
「“気遣う(care for)”と“気にかける(care about)”という言葉があります。前者は直接的に世話すること。後者は必ずしも具体的なケアは実践せず、“家族のためにどれだけ稼いでくるか”などとケアへの思いを金銭などで補完している。どちらも尊い行為ですが、女性が担いがちなcare forの能力への評価は低いままです。一目瞭然なのはケア労働者の処遇ですよね。それは、人の世話は誰でもできるだろう、という考えが浸透してしまっているからだと思います。
しかし、重労働から体を痛めたりひどい言葉を浴びたり、大変な目に遭うことも。また、相手が何を求めているのか察知し、辛さや痛みに寄り添って手助けするというのは実は非常に難しく、知力・体力を総動員する高度な能力です。ケアに従事する人々への感謝とともに、生きやすい社会を作らなければならない。そのためには、一人一人が想像力を働かせて、見えなくされている存在の声に耳を傾けること。そこから、見えない労働の存在と価値を明らかにすることが重要です。その想像力を鍛えるために文学があるのだと思います」
“いつか地球が〈ケアする惑星〉の名にふさわしい場所になることがあれば、それはケアする人が大切にされるときだろうと思う”、と小川は第1章冒頭に綴る。他者を犠牲にせず、慈しみながら共生する可能性を探りながら現代における「ケア」という言葉を考えると、新たな視野が広がっていくようだ。