アーティストたちが夢見た楽園は、激動の歴史を秘めている
20世紀文学にリアリズムの風穴を開けた稀代の作家にしてジャーナリスト、海と極北の冒険家でもあるジャック・ロンドンは、作家になる以前の10日間を小笠原の父島で過ごしている。アザラシ漁の遠洋漁船でサンフランシスコを出航した17歳が初めて踏んだ異国の土。
サンゴの海岸、艶めく熱帯植物、見慣れぬ作物ひしめく島の景色を、「この世のものとも思えない美しさ」と称したロンドンが島を訪れて抱いた思いは、短編小説「小笠原諸島にて── 一八九三年、アザラシ狩り船隊の一件」で読むことができる。
小笠原に魅了されたのはロンドンだけではない。東京の内地から南へ1000km。飛行場のない父島へ行くには、2023年の現在にあってもなお片道24時間の船旅を含む6日間を必要とする。まさにロングバケーション。その数倍もの時間を要した100年前、それでも小笠原は作家や画家を惹きつけてやまない南の楽園だった。
20世紀初頭には、ポール・ゴーギャンへの傾倒から小笠原への憧れを強めていた詩人の北原白秋が、海に、空に、木に、アオウミガメの肌にも野鳥の羽根にも「瑠璃色」を見出し、散文や歌に島の姿を書き残している。
作家の中島敦も「ある時はゴーガンの如逞ましき野生(なま)のいのちに觸ればやと思ふ」と詠むほどに、かの画家への憧れを募らせ南洋を旅した。1936年の父島への船旅は片道2日間。島を巡り、山を歩き、多文化が混じり合う日常を、色彩と光に満ちた旅路を100首の短歌に詠んだ。
ウクライナ出身の前衛芸術家ダヴィド・ブルリュークもまた、絶海の孤島を夢に見る。絵画や詩でロシア未来派を牽引したブルリュークと、同行したチェコ人画家ヴァーツラフ・フィアラが父島に滞在したのは1920〜21年。風景画を中心とした幾枚もの絵画と、2人がそれぞれに残した紀行文は今に伝えられ、フィアラの作品は、彼らが島を訪れた100年後の夏、父島で開催された『フィアラ展』で住民にも広く公開された。
2023年の8月には父島〈聖ジョージ教会〉での展覧会も開催されたフィアラの絵画に、「島の人たちが驚いてくれたのが嬉しかった。時代とともに家屋や道具が変わっても、海や浜の風景や植物の表情は今と同じで、タイムスリップのような感覚を覚えます」と語るのは、展覧会を企画したルディ・スフォルツァさん。観光地・小笠原とは一味違う、島の空気感までが綴じ込まれた日英バイリンガルのフリーペーパー『ORB』を編集、執筆、発行している。
第1回『フィアラ展』の会場となった〈PAT INN〉もまた、小笠原の歴史に深く関わっている。現在、ホテルとレストランを営んでいる瀬堀翔さん&健さん兄弟は、長く無人島だった父島を開拓し、初めてこの地に定住したナサニエル・セーボレーから6代を数える直系の子孫なのだ。
「英国人、米国人、デンマーク人と、ポリネシア、ミクロネシア系のハワイ島民の計25名がハワイのホノルルから父島へやってきたのが1830年。英国海軍による小笠原諸島の発見から3年後の入植計画で来島した移民団の一人です」と、島のツアーガイドも務める翔さん。
土地を開墾し、農作物を育て、漁をし、時折やってくる捕鯨船と交易する。日本の鎖国を終わらせようと黒船を率いたペリー提督が島にやってきた際には、自治政府を作るよう要請され、セーボレーが島長官に任じられた。初めての入植者たちと、捕鯨船員などの子孫たちは“欧米系島民”と呼ばれ、現在父島では、人口の10%ほどを占める200人前後が暮らしている。
歴史を紐解いてみれば、大航海時代にスペインの探検家により硫黄列島が発見され、17世紀には阿波国(現・徳島県)からの漂流船が母島に漂着。江戸幕府による調査により「無人島」として記録された小笠原。さらに遡った16世紀末に父島、母島、兄島を発見したとする小笠原貞頼の名が時を置いて歴史に現れるが、貞頼は実在を疑われ、彼が残したとされる『巽無人島記』は偽書として、かの大岡越前に存在を否定されている。
しかしその逸話は伝説として島の歴史のなかを漂い続けているのだ。地理書『三国通覧図説』の海外流出や翻訳によって欧米各地に小笠原諸島が知られるようになった18世紀を経て、ついにセーボレーら開拓者の暮らしが始まる。英国でも米国でもなく、日本にも属していなかった小笠原に、日本の領有を確かにすべく咸臨丸が派遣されたのが1861年のこと。以降、幕府や政府により、八丈島をはじめ日本の各地から移住者が送り込まれるようになっていく。
「領有をめぐって国家間、民族間で大きな争いがなかったのは不思議ですよね。初の入植から江戸幕府の調査まで約30年。捕鯨船や調査船の往来もあったし、島に文化が根づく前に新しい文化がバンバンやってきた影響が大きかったんでしょうね」と語る翔さんは、「米国領にしたがっていたペリーも、大統領交代のあおりで方針を変更せざるを得なかったらしいですよ」と教えてくれた。
小笠原の歴史は太平洋戦争によって新たな局面を迎える。日本海軍の拠点とされた父島からは6886名の島民が強制的に疎開させられ、終戦後の諸島は米軍統治下に。欧米系島民と配偶者のみが疎開先から帰島を許されるという状況は1968年の返還まで続いた。
父島のヤンキータウンと呼ばれるエリアでバー〈ヤンキータウン〉を営む大平レーンスさんは、統治時代の父島で生まれ育った欧米系島民の一人。返還式の日にグアムから帰島し、アメリカ国旗が降ろされ日本の旗が掲げられた瞬間を、半世紀が過ぎた今も色濃く記憶しているという。
ボニンブルーに抱かれて、島のざわめきと静謐(せいひつ)を味わう
「無人島」という古称に由来するBonin Islands=小笠原諸島の名を、世界自然遺産として知っている人も多いだろう。ボニンブルーと呼ばれる深く透明感のある青色に囲まれた30を超える島々と、217の付属島からなる小笠原諸島は、その海域を含む多くが国立公園として認定されている。海底の火山活動によって生まれた亜熱帯の海洋島。
その誕生から一度として大陸と地続きになったことがないため、生態系が独自の進化を遂げた東洋のガラパゴスは、固有種の数も桁違いに多いのだという。そんな前情報がなくとも、島々に上陸した瞬間から、光を浴び豊かな奥行きを見せる植生や、明るく響く鳥の声に驚かされる。
馴染み深いウグイスのさえずりも「ホケキョ」となんだか短いのだ。鳴き声の主はハシナガウグイス。小笠原固有亜種であるこの鳥のように、遥かなる太古の時間をその身に帯びているかのような動植物との出会いが島には満ちている。夜になれば、浴びるほどの満天の星の下、幸運な旅人が、浜で産卵するアオウミガメや陸近くを泳ぐシロワニに遭遇することもしばしば。自然との距離の近さをこれでもかと体感させてくれるのだ。
ところで島の人たちにインタビューするうち、たびたび小笠原産コーヒー豆の話題が上がることに気づく。それならばとルディさんに案内を乞うて、小港エリアに立つ〈USK Coffee〉を訪ねた。店主の宮川雄介さんは2003年に初来島。帰りの船の上で、父島でのコーヒー栽培を決意したという。
「小笠原は明治期に日本で初めてコーヒーが植えられた場所だという記録が残っていて、その時の苗の末裔がうちの畑にも植わっています。うちの農園の収穫高は年30~40kg。父島と母島にはコーヒー農家がだんだん増えてきているし、いずれは島の特産品として認知されるくらいに盛り上がってほしいですね」
そう語る宮川さんやルディさんら、若い世代の移住者も多い小笠原村の平均年齢は約43歳と国内でも指折りの低さ。ローカリズムから一定の距離を置くという地域の特性が、未知のカルチャーを柔軟に受け入れる。そうして文化を拡張し、自然を愛し、島の内外にそれを発信する人たちの存在によって、今も、昔も、小笠原は世界に発見され続けている。
竹芝ターミナルを出て5日目。おがさわら丸入港中に限定営業する店や、軒先に「新亀」(その年に獲れたアオウミガメ*)の文字を掲げた飲食店ともそろそろお別れだ。
旅の終わりのさみしさは賑やかなフェアウェルで笑顔に塗り替えられる。おがさわら丸が停泊する港には数え切れないほどの島民が集まって手を振り「いってらっしゃーい」と声を上げる。出航とともに何艘もの漁船や観光船が湾内を並走して、最後は海へダイブ!ボニンブルーに包まれて24時間の航海がスタートする。