尊敬する作り手のために、「客」として選択できること
いつの頃からだろう。
飲食でも、服でも、本でもなんでも「誰のものを誰から買うか」ということを意識するようになった。かならずしも生活に必要なわけではない、つまり趣味的だったり嗜好的だったりするものを求める場合、いまはまず、それが「誰」のもので、そして「誰」から買うのがよいのだろう、ということをその都度ごとに考える。
それはソーシャルメディアが普及したことで、これまで直接知ることのなかった「作り手」の顔が見えやすくなったり、お店の動向やその「あるじ」の気配が身近になったりしたということにも関わっている。
いま、わたしたちのタイムラインには、作り手の投稿とお店の投稿がいっしょに並んでいる。場合によっては、作り手に直接コンタクトをとって、お店を介さずになにかを買うこともできるかもしれない。そうすると、お店を介して買うよりもお得に、あるいは作り手がよりよい対価を得られる金額で、取引ができるかもしれない。いまは「誰かのものを、そのひとから買う」ということが、ふつうにありうる選択肢になってきた時代なのだ。
でも、だからこそ。
こういう時代だからこそ、いま「お店」がおもしろい、とわたしは思う。リアルな「お店」の存在意義が問われる時代だ。そこに向きあいながらやっているお店は、それぞれのやり方で、そのお店でなければならない「なにか」を真剣に模索している。だからわたしも「客」として、「誰から買うか」を真剣に考えて、ちゃんと行動したい、と思う。
それはつまり、誰に、どう対価を払うか──おおげさに言えば、誰と、どう生きるか──を考えることだ。
もちろん、お店を介さずに、作り手と買い手がつながって直接取引すれば、お互いにとって効率がよいかもしれない。しかしそれは、顔の見える作り手と、個人として関係性を築こうとすることのはずだ。「効率がよい」などという利害関心だけで、個人と個人の、すなわちプライベートなつながりを育むことはできないだろう。
それに、わたしたち個々人はちょうど一人分の消費活動しかできない。服でも、本でも、ワインでも、作り手から買える量には限りがある。それら一件ずつの「効率がわるい」取引に、接客のプロではない作り手の時間と手間というコストを強いることは、はたして持続可能なんだろうか。
そんなことを考えてしまうから、わたし自身は、縁あって直接の交流をもたせてもらった作り手であったとしても、継続的に関係性を育むことをお互いが望み、それが一方の負担にならないと思える少数の例外を除いて、原則的には信頼する「お店」を介して取引することにしている。
作り手の作品が好きで、作り手を尊敬している。だからこそ、しかるべき緊張感と距離感が大事なのだろうと思う。わたしたちの「好き」は扱いづらい感情で、うっかりすると大事にしたかったものを壊しかねないからだ。その点で「お店」は、そのあるじや店員は、プロとして自分の「好き」の取り扱いに長けている。
なにより、あくまで一人の消費者、読者、飲み手でしかないようなわたしたちにとって、日常的に行くことができるお店が大切ならば、やはりその場所が、そのひとの活動が持続可能であるために、「客」としてできることをしなければならないだろう。

「バザールとクラブ」から紐解く、“アットホーム”と“内輪ノリ”の決定的な違い
──こんなふうに、「お店」のことをよく考えているのだけど、これはただ「客」としての経験から自分ひとりで考えているわけではない。わたしがずっとやってきた学問である「哲学」の歴史には、こういうことを考えるための「ことばづかい」のヒントがある。
リチャード・ローティという20世紀後半のアメリカで活躍した哲学者がいる。
ローティは、いろいろなことを論じた哲学者だけど、「お店」について考えるには、彼の「パブリック(公共的なもの)とプライベート(私的なもの)の区別」という議論が参考になる。
前回紹介した山本理顕が「ミセ」と「イエ」と呼んだ、パブリックなものとプライベートなもの。ローティは、これを「バザール」と「クラブ」と呼ぶ。誰でもアクセスできて、買い手としても売り手としても、そこで生活の糧を得ることのできる「バザール」は、みんなの暮らしを支えるインフラであり、そこを離れては生きていくことができない。
でも、バザールは疲れる場でもある。嫌な客が来るかもしれない。嫌な店に出くわすかもしれない。客側であれば、そんな店にはもう行かなければいいかもしれないが、お店の側からすると、そうそう客は選べない。ひとまず受け入れてみて、どうしてもという場合に「出禁」を言い渡すこともあるかもしれないが、一度は入れてみなければ出禁にもできない。
だから、バザールで疲れた一日の最後、自宅に寝に戻る前にふらっと立ち寄れるような「クラブ」が、誰にとっても必要になる。そこには、自分と似たようなひとがいて、だいじな価値観を共有しており、警戒せずにいろいろなことが話せる。昼間の愚痴だって言えるだろう。バザールではとても言えないようなキツい悪口も飛び出すかもしれない。
誰もが配慮しあうから安全だけれど、個々人にとっては疲労してしまう場でもある「バザール」と、気心が知れた仲間と安心してすごせるけど、時として内輪ノリや差別的言動の温床にもなりかねない危うい「クラブ」。それらはどちらもなくてはならず、どちらも大事なのだ。
この比喩がおもしろいのは、パブリック(バザール)もプライベート(クラブ)も、どちらも広い意味で「お店」である、ということだ。もう少しふつうの哲学者だったら、パブリックは「政治を語れる広場」で、プライベートは「生活を営む家庭」だとかいうだろう。でも、ローティの場合にはどっちも商業的な場所なのだ。こういうところに、哲学者の個性とその魅力が宿る。
ローティがこの比喩を持ちだしたのは1986年のことなのだけど、当時は想像さえできなかったインターネットの普及とソーシャルメディアの台頭によって、「バザールとクラブ」は、今日また新たな課題を提起してくれることになった。冒頭から述べてきたように、いま、わたしたちの日々の営みは、ソーシャルメディアによって隅々まで照らされるようになっている。
そこでは、誰がいつどこでなにをやっていて、誰とどうつきあっているのかが可視化される。アカウントを作らなかったり鍵をかけてみたりしたって、誰かとつきあっている限り、この構造そのものから逃げることはむずかしい。まして広い意味で「商売」をしていて、ソーシャルメディアを介してなにかしらの発信や宣伝をする必要があるならば、否応なくそこに巻き込まれざるをえない。
かくしていま、公共的な光に満ちた「バザール」空間が、世界の隅々にまで行き渡っている。ぜんぶが可視化された世界で、ある服が、ある本が、あるワインが「誰」のもので、それを「誰」から買うのがよいだろうかと、わたしたちはつい考えてしまう。これは、この世界にもとからあった生産~流通~小売の構造と、それぞれの「中のひと」が見えるようになったというだけの話ではあるのだけど、一度見えるようになれば、もう元に戻ることはない。
こういう環境で、いつ誰からどう見られるかわからないというバザール空間的な緊張感から自由になれるような、つまり特定の「誰」であることから離れて、暗がりにまぎれることができるような、そんな「クラブ」的空間を探したり、そんな場を作ったりすることは、そうそうできることではない。
ローティ自身が語っていたのは、バザールとクラブの双方が「どちらも必要」というところまでだった。しかし、いま明らかに意識して守ったり、あるいは積極的に作りだしたりしなければいけないのは、まちがいなく「クラブ」の方だろう。では、どうすれば現在のこの環境で「クラブ」的な空間を、その危うさともうまくつきあいながら、やっていくことができるだろうか。
前回も考えたように、個々の「お店」には「バザール」的な要素と「クラブ」的な要素が入り混じっている。いま増えているような、その店をやっている「誰」の顔がよく見えるお店は、そうでない大型店やチェーン店よりも「クラブ」色が強い。だけど、そこにもやはり異なるひとたちが集う場所として、しかるべき緊張感がある「バザール」の要素も不可欠だ。たぶん、その緊張感がなくなってしまうと、「アットホームなよいお店」は節度のない内輪ノリで、一見さんは入れず、ときとして近所迷惑でさえあるような店になってしまう。
「お店」を介さず、作り手と客が直接つながることのむずかしさも、ここにある。一対一の関係性のなかで「バザール」の緊張感を保つことは、双方にかなりの自制心とバランス感覚が求められる。
いま時代の要請にあった、時として「クラブ」的空間になりうるけれども、しかしやはり必要な水準の「バザール」性もかねそなえた店。そんな絶妙なバランスは、どのようにしたら成り立つだろうか。その答えは一種類ではなく、お店のジャンルや、店主のキャラクター、立地や客層など、それぞれの変数の組み合わせごとに、それぞれの回答があるだろう。でも、それがどんなものであれ、そこは「よい店」と呼ばれ、「よい客」が付いているはずだ。

なぜ酒場に惹きつけられるか。「お店」が持つ“暗がり”の魅力
日夜、カフェで、服屋で、本屋で、そして酒場でそんなことを考えている。わたしが好ましく感じ、おすすめできる「よい店」は、なぜそういうふうになっているんだろう、と。
わたしにとって身近にあって、そこに「クラブ」的空間が現出しうる場所のひとつが「酒場」だ。だから、今晩もまた「この店はよいなぁ」と思える酒場で、店主の所作を眺めたり、それぞれの客との、あるいは客どうしの会話をぼうっと聴いたり、入れそうなら会話に入らせてもらったりする。
服屋や本屋ではまた過ごし方がちがうから、同じようにはいかない。飲食店だって、たいていの場合は隣の客に話しかけたりすべきではない。でも、酒場はちがう。酒場のいいところは、そうやって隣にいる誰かと話しうることだ。もちろん、慎重に顔色を見てタイミングを探ったり、あるいは店主の仲介があったりしてはじめてやってよいことだけれども。
相手の名前を知らなくてよい。素性も不問だ。相互に知り合ったり、意思疎通することが主目的でもない。ただ、出されたお料理がおいしいとか、お酒がどうだとか、しょうもない話でいっしょに笑うとか、そういう小さな「好き」で結ばれて、つかのま生じるような「わたしたち」という感覚が、酒場を酒場らしくする。
そこさえ、つまりその「お店」が、その場の空間や時間を好ましく思っているということさえ共有できるなら、その感覚と目標を共有する「わたしたち」が立ち現れる。それは、ただ食事をとりたいとか、酒に酔いたいとか、そういう用事からしたら、まったく余計なものだ。しかし、そのためにわたしは酒場という「お店」に通う。
ローティがいうところの「クラブ」的な場が、つかのまのものとして現出するための条件とは、そういうものだ。はじめて会ったひとに、いつも会う名前も知らぬ常連さんに、なんとなく生じる「わたしたち」という感覚に甘えて、ついうかつな話ができるかもしれない。なんの利害もないからこそ、昼間の愚痴を言えるかもしれない。
もっと言えば、まったくしゃべらなくたって、お酒を飲まなくたってよい。少なくとも自分に害意をもったりしないし、こちらからも警戒しなくてよいと思えるひとたちと、同じ空間をよいなと思いながら、ひとときいっしょに過ごすことができる。
そんな夜があると思えるなら、ひとはまた明日も「バザール」でやっていけるだろう。
バザールの明るさは重要だ。
わたしたちはいま、そのおかげで「誰」のものを、「誰」から買おうか、どのお店に行こうか、と考えることができる。顔が見える作り手のものを、顔が見える店主や店員を経由して、手に入れたり、味わったりすることができる。そういう意味で、私たちはいま、かつてなかったおもしろい時代に生きているのだと思う。
だけど、四六時中そのように顔を晒して、あるいは顔を直視しながら生きるのは、やはり窮屈で、疲労することでもある。
だから、わたしたちにはクラブの暗がりもまた、必要なのだ。
名前も顔も問われない、ほんのわずかな「好き」に紐帯されて生じる「わたしたち」の一員であるような感覚が、そこに安心できる瞬間が、「お店」を営むあるじたちを含めて、誰にとっても、どこかになくてはいけない。
そんな昼と夜があって、それはどちらも必要で、それで世界はなんとか回っているのだから。