千葉真智子
展覧会は大きく2つの考えがベースになっています。一つは、近年世間的にもアート界でも、既存の制度や力に対して連帯して抵抗する動きがすごくある。一丸となって対立行動をとると、もう一つの力になってしまいますが、正しさ自体に疑いを持ち、第3の提言を個々ができるのがアートではないかと。そう考えると、必然的にアナキズムに近づいていきました。もう一つは、どこにも属さない活動を何かに回収されずに広げていく試み自体がアートだと思うので、それもアナキズム的に捉えられるのではと。
森元斎
実はまさに今、第一次大戦下のダダイズムや第二次大戦後のレトリストやシチュアショニストなど様々な時代の芸術運動を、アナキズムとしてまとめて捉えるという研究をしています。なので、この展示の情報を見たときは「してやられた!」と(笑)。
千葉
ロシアのパフォーマンス集団〈集団行為〉の活動もいわゆるアナキズムではありませんが、ソビエト政権下でどうすれば統治の外部で創造ができるかを徹底的に考えていた。誰もいない平原で、自分たちだけで遊びにも見える行為を繰り返していたんです。「遊び」も今回の要素の一つです。
森
考古学者のデヴィッド・ウェングロウは、デヴィッド・グレーバーとの共著『万物の黎明』で、我々の文明の基本は「遊び」だったと指摘している。労働など、今当たり前だとされていることが当たり前でないと示すには「遊び」はすごく重要ですよね。集団で何かをするときに、誰かが統率せずにうまくやってきたのもアナキストたちなのかなと。
ある友人から聞いたのですが、フランスで空港建設反対運動に参加したとき、20人くらいで2週間近くいろいろなことを話し合ったのに、いざ当日になったら5人しか来なかった(笑)。参加者も来なかった人を糾弾せず、「まあ仕方ないよね」みたいに流すと。それはすごく感動しました。仲間内でも人の言うことを本当に聞かなくてもいいんだというアナキズム。
千葉
協働スタジオを運営する〈コーポ北加賀屋〉の方々にもそのマインドがあるなと。会議でも誰かが仕切るということがないので結論が出るまで何時間も話したり。代表者を決めずにしゃべってしゃべって、何か生まれるかもしれないし生まれないかもしれない状況を作る。展示の配置から誰が車を運転するかまであみだくじで決めていました。
ヒエラルキーがありつつもそれだけではない関係性を模索しているのは見ていて心地よいです。出展作家の大木裕之さんもよく「適宜で」とおっしゃっています。必然性が自分の中に生まれたらやるという姿勢が面白い。徒党を組むと同調の雰囲気が広がるけれど、本当は個人の考え方には段階があるはず。アナキズムは今関心を集めていますが、芸術家はいつの時代も、硬直化する社会の中で別の生の可能性を繰り返し考えてきたのではないかと。
森
コスパやタイパといった言葉が流行っている割には、不合理なことをやってしまう瞬間は多い。「しないでおく」というのは「したくないことをしない」につながっていくのだと思います。そういう知恵を共有しながら生きる方法もあるんじゃないかと思います。