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映画とは、答えそのものではない。映画監督・コゴナダが『アフター・ヤン』で問いかけるもの

家族とは?心とはなんだろう?そんな哲学的な問いを提示する映画『アフター・ヤン』が、10月21日より全国公開される。本作で目指したのは、どんなSF映画だったのか。監督を務めたコゴナダに話を聞いた。

text: Yusuke Monma

人間が人型AIと当たり前に、家族のように暮らしている近未来。ある日、ベビーシッターとして生活していたAIが故障し、そのメモリに残された記録映像を見た主人公は、まるで人間のような感情と記憶を持つAIの、心を捉えて放さない女の存在を知る。小津安二郎を敬愛することで知られる監督のコゴナダは、美しく詩的な映像と、真実を探求する哲学的な問いかけにより、『アフター・ヤン』を“SF映画”以上のものにした。その感触はこれまでに観てきたSF作品とは異なるものだ。

詩的で哲学的な世界観を提示する“SF作品”

———この作品であなたが目指したのは、どんなSF映画ですか?そもそもSFを撮ろうという考えなどなかったのかもしれませんが。

コゴナダ

うん、その通りです。もちろんSFというフォーマットがあったために、通常の多くのドラマでは語り得ないことを語れたと思いますが、これは地球の終末に焦点を当てたり、ヒーローが人類を救ったりする、そういったSFに触発された作品ではありません。僕が描きたかったのは、むしろそれらのSF作品のバックグラウンドにいる人たちの物語です。

近未来の世界で生活する家族が、大切な誰かを失った喪失感と向き合い、それと格闘しながら日々を乗り越えようとする。あえてSFというなら、ドメスティックなSF作品、SFの家族劇を作りたいと思いました。

———ここに描かれる家族は、白人の夫と黒人の妻、それにアジア系の養女と人型AIのベビーシッターという、多様な種により構成されています。家族のあり方は時代とともに変化していて、それは本作では人間同士の結びつきにとどまりません。家族を結びつける最も大事なものとは何だと考えますか?

コゴナダ

僕が興味深いと思っているのは、劇中でも触れている“接ぎ木”の考え方です。接ぎ木とは、異なる種類の植物同士をつないで、一つの植物として育てる技術のことですが、家族も同じように、血縁を超えた何かでつながり合い、そのつながりが本物になることがあるかもしれません。

その“何か”は僕にもミステリーだし、そのミステリーこそこの映画の根本にある問いかけだと思います。我々の生きる現代社会では、誰もがつながっているという感覚を失い、疎外感を抱えながら生きている。

じゃあそういった疎外された世界において、私たちの真の家族とはいったい誰なのか?それが僕の問いかけたかったことです。

映画とは、答えそのものではない

———本作を観ていると、さまざまな問いを突きつけられますが、その一つが心とは何かということです。本作の人型AIには記録映像が残されていて、そのエモーショナルな映像を観ていると、そこには人間と同様の記憶や、もっと言ってしまえば心があるように感じられます。そうなってくると、果たして人間とAIの境目はどこにあるのかと思ってしまいますが。

コゴナダ

私たち生命体は一時的な存在にすぎません。有限性を持つ、時の産物だと言っていいかもしれませんね。ところがこの作品の主人公は、AIも一時的な存在であり、時の産物だというふうに認識していきます。おそらくその理由は、AIから“存在したい(To Be)”という欲求と、“属したい(To Belong)”という欲求を発見するからでしょう。

人間もAIも時の概念にとらわれた存在だとしたら、僕としてはAIがその2つを望むことに不思議はありません。とはいえ、その考えに同意してもらうことが、僕の映画作りの目的ではないんです。

フィルムメイキングというアートは、メッセージそのものでも、答えそのものでもない。答えを追求し、探究するものなんです。

———本作では中国の伝統的な価値観や思想が語られる一方、坂本龍一やAska Matsumiyaが音楽に携わり、映画『リリイ・シュシュのすべて』の挿入曲「グライド」がMitskiによって歌われています。なおかつ、『リリイ・シュシュのすべて』のTシャツを登場人物が着るなど、アジア的な要素がちりばめられています。ほかの地域とは異なる、アジアならではの文化的特色とは?

コゴナダ

それも簡単には答えられない質問ですが……世界がよりグローバルに、普遍的なものになっていく中で、僕は韓国で生まれ、母国の外で暮らしてきたディアスポラの一人として、アジア人とは何かということをずっと考えてきました。

なぜなら、それは僕にとってとても根源的な問いかけだからです。アジア系の外見を持つ本作の人型AIも、劇中で何がアジア的かと自問していますが、それは僕がこの映画を通じて探求したかったことの一つです。答えが何かということは、僕にもまだわかりません。

映画『アフター・ヤン』のワンシーン