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荒井由実、松任谷由実、呉田軽穂……歌謡曲作家としてのユーミンの軌跡

荒井由実、松任谷由実、呉田軽穂……。テレビで、カラオケで、私たちは何度、「あ、この曲、ユーミンが作ったんだ!」と驚いただろうか。その幅広い作風と、タイムレスな魅力。歌謡曲作家としてのユーミンの軌跡を振り返った。

Text: Motohiro Makaino

70年代前半の歌謡曲シーンは、職業作曲家・作詞家の手に委ねられていた楽曲制作に、この時期に台頭してきたシンガーソングライターたちが参加するケースが増えていった。
吉田拓郎や加藤和彦らに続き、ユーミンこと荒井由実もそのムーブメントに大きく関わった一人である。

ユーミンはもともと作曲家志望で、自身のソロデビュー前、1971年に元ザ・タイガースの加橋かつみに作曲提供した「愛は突然に…」(1)で、作曲家として先に世に出ている。

ユーミンが音楽シーンで脚光を浴びるのは75年のことで、同年6月に自身のアルバム『コバルト・アワー』で注目された後、8月にアグネス・チャンの「白いくつ下は似合わない」を作詞・作曲する。だがそれ以上に大きかったのは、バンバンに提供した、同年8月1日発売の「『いちご白書』をもう一度」(2)。

この曲がオリコン1位の大ヒットとなり、直後に自身がリリースしたシングル「あの日にかえりたい」も1位を獲得したことで、一躍ユーミン・ブームが巻き起こる。他者への楽曲提供でブレイクし、まず作家として認められ、その後、自身の作品も注目されるという流れである。

ユーミンの場合、他のシンガーソングライターと大きく異なる点がある。それは作詞だけ、作曲だけを単独で依頼されるケースがあり、しかもどちらかに偏ることがなく、どちらもほぼ均等に発注が来るのだ。こうしたアーティストは彼女を置いてほかにない。

知世、聖子、ジュリー……。
作詞と作曲の自在な使い分け。

作詞のみの仕事では、郷ひろみの75年のアルバム『HIROMIC WORLD』(3)で丸ごと1枚全11曲を作詞。作曲はすべて筒美京平。
ユーミンと筒美の組み合わせはその後も平山三紀の「やさしい都会」、松任谷姓になってからの五十嵐夕紀「6年たったら」などがある。

ほかにも沢田研二の「ウィンクでさよなら」(4)は加瀬邦彦が作曲、南沙織の「青春に恥じないように」は川口真が作曲、と76~77年にかけて作曲家とのコラボによる歌謡曲歌手への楽曲提供を積極的に行い、80年代に入ってもガゼボの「アイ・ライク・ショパン」に日本語詞をつけた小林麻美の「雨音はショパンの調べ」(5)がオリコン1位の大ヒットとなった。

松任谷正隆とのコンビも多く、77年にリリースされた正隆の唯一のアルバム『夜の旅人』では全曲ユーミン作詞、正隆作曲のコラボが実現している。

珍しいところでは吉田拓郎と組んだ岩崎宏美の「時の女神」や、発表当時はレコード化されなかったものの、TV番組『メリー・クリスマス・ショー』(日本テレビ)のテーマソングとして桑田佳祐と組んだ「Kissin’ Christmas(クリスマスだからじゃない)」がある。

一方、作曲のみの仕事では、呉田軽穂のペンネームで書かれた松田聖子の一連の楽曲が名高い。
聖子作品の場合はすべて松本隆とのコンビで、松本とユーミンの最初のコラボは76年に発表された石川セリの「ひとり芝居」。

ほぼ同時期に、太田裕美のアルバム『心が風邪をひいた日』に「袋小路」と「ひぐらし」を提供、こちらが先に世に出ている。

このコンビでは薬師丸ひろ子の「Woman“Wの悲劇”より」(6)や山瀬まみのデビュー曲「メロンのためいき」、綾瀬はるか「マーガレット」、堀込泰行・畠山美由紀・ハナレグミによる「真冬物語」などがあり、松本と組む場合は、呉田軽穂名を用いることが多い。

ほかにも彼女のステージ演出を手がけていた伊集院静こと伊達歩と組んだ榊原郁恵「イエ!イエ!お嬢さん」、吉田美奈子の作詞による田原俊彦「銀河の神話」など。

作曲のみの場合、ほとんどが曲先だそうだが、松田聖子「秘密の花園」は松本隆の依頼で、詞先で書かれている。
また聖子への初めての提供作「赤いスイートピー」(7)を書くにあたり、敢えて知名度の高い「松任谷由実」という名前を使わず、まだ一般的にそれほど知られていなかったペンネーム呉田軽穂の名前を使うことを条件に引き受けたという。(呉田軽穂の由来は女優のグレタ・ガルボから。)

曲調だけで人の心を惹きつけられれば……というユーミンの思いの通り、この作品は現在に至るまで知られる、聖子の代表作となった。

当然、作詞と作曲両方を依頼されるケースもあり、アン・ルイス「甘い予感」、三木聖子「まちぶせ」、原田知世「時をかける少女」(8)などの傑作を多く残している。
また、これらの曲はセルフカバーもされているが、オリジナルと聴き比べるとアレンジでかなり印象が変わっているものも多い。2003年にはセルフカバー集『FACES』も発表している。

70年代中期から80年代にかけ、ユーミンに依頼が殺到したのは、歌謡曲がより洗練されたポップスへと進化していく過程で、彼女の洋楽的なコード進行を用いた品の良いメロディ、または等身大女性の微妙な心理描写を描く作風が必須だったからであろう。
結果的に作詞と作曲、どちらの場合でもヒットを出しているのだから驚くべき才能である。

彼女の技巧派ぶりを証明する例として、他者への提供作を、詞のみを書き換え、自分の歌唱曲に作り直したケースを挙げてみたい。

まず78年に川崎龍介に提供した「サマー・ブリーズ」(9)の詞を書き換え、自身の「サーフ天国、スキー天国」が生まれた。
この“お色直し”パターンでは、ポニーテールに提供した「二人は片想い」が「昔の彼に会うのなら」に、小林麻美への提供曲「遠くからHAPPY BIRTHDAY」が自身の「Happy Birthday to You~ヴィーナスの誕生」になった。

いずれもセルフカバーではなく、全く別の印象を持つ楽曲に生まれ変わっているところに注目したい。

逆に、曲のみ書き換える大技もあり、原田知世に提供した「時をかける少女」は同名映画の主題歌として作られたが、同作の製作者・角川春樹が『時かけ』のリメイク映画を作る際の主題歌を依頼した、詞は残したまま曲のみ付け替え「時のカンツォーネ」という楽曲も作っている。

作家デビュー作の加橋かつみ「愛は突然に…」も当初は自身が書いた「マホガニーの部屋」という詞が乗っていたそうだが、加橋自身が詞を書くことになり、宙に浮いた「マホガニーの部屋」は、その世界観だけを踏襲し、76年に自身の7枚目のシングル「翳りゆく部屋」として発表した。

また、「あの日にかえりたい」は、TVドラマの主題歌として依頼された楽曲であったが、詞がドラマの内容と合わないというテレビ局のプロデューサーからの依頼で、全面的に詞を書き直している。

元の詞には村井邦彦が曲を付け、ハイ・ファイ・セットの「スカイレストラン」として発表された。ユーミンは詞先でも曲先でも臨機応変に対応できる技術を備えた作詞家であり作曲家であるのだ。

彼女のデビューアルバム『ひこうき雲』の帯には、「魔女か!スーパー・レディか!」というキャッチがつけられていたが、まさしく歌謡曲シーンで作詞と作曲を自在に書き分けたスーパー・レディであった。

シンガーソングライター・松任谷由実