ぼくらの社会には、まず、働くのはいいことだという前提があります。そこから、どうやったら立派に楽しく働けるか、どう実になっていくかなどと考えるわけです。働くことはいいことに決まってる。そう思わないと生きていけないのです。ひとたび「働くことが嫌いで嫌いで」と言えば、すぐにでも社会からこぼれ落ちます。
それを知っているから「俺は働くことが好きだ」「働くことを喜びたい、工夫したい」などと言うんですね。そうやって、ほとんどの人は自分の心と取り引きしているんじゃないでしょうか。これを打ち破った人が、ぼくにとっては2人いて、1人が吉本さん、もう1人は、なんとうちの娘です。
うちの娘の話を先にしましょう。娘が就職活動するべきだった年の夏休み、彼女は就活もしなければ勉強もしていませんでした。カミさんが「ホントは何がしたいの?」と訊いたら、数秒沈黙し、魂の叫びのようにぽつりと「遊びたいんだよねぇ」と言ったそうです。カミさんは、その「遊びたいんだよねぇ」の真剣さに打たれて、何も言えなかったらしいです。ぼくだって手の打ちようがありません。
でも考えてみれば、その魂の叫びは、自分もずっと言いたかったことでした。昔も今日も、そう思っています。とうとうそれを口に出した人がいたんだなぁ、というわけで、ぼくの心は半分真っ暗、半分朝焼けみたいになっちゃった。もしみんながそう思ってるんだったら、そういう仕事に切り替えればいいんですよね。
「マージャンで稼いでこい」と上司に言われても誰もやりませんが、好きでやる徹マンならやるものなんです。徹マンと同じように仕事ができれば、「遊びたいんだよねぇ」の気持ちとも両立する。嫌な労働をしない、ということを一生懸命やれば、遊びでお金を稼ぐことができるのです。
吉本さんは、娘がそう言うよりもっと前に、同じことをおっしゃっていました。遊び以外のことは、吉本さんも「苦痛でしょうがねえ」なんです。文句ばっかり言って、怠け者。でも、吉本さんの仕事は言うまでもなく怠け者のやることではありません。
依頼されなくたって『初期ノート』の頃の猛勉強ぶりがあったわけです。生意気で博識で刃物のようだった若い時代は、吉本さんの、いわば徹マンです。働きたいということは、力いっぱい遊びたいってこととイコールなんだよ、と最終的には思いたいですね。
吉本さんはいろんな書き方をしていますが、つきつめれば、「怖がるな」「お前が怖がってるものはたいしたことないぞ」と言ってるのだと思います。ただ怖がって文句言ってるやつは、結局は何もできないです。「遊べばいい」というキーワードと、「毎日、10年続ければ、一人前になれるよ」というメッセージを、表裏金メダルみたいにくっつけて、ポッケに入れておくといいと思います。
コトバ:1
『悪人正機』(2001)より
コトバ:2
自分のやっている仕事が自分に合っているのかどうか自信を持てない人は多いのではないでしょうか。
僕の身近な作家と編集者のたとえで言うと、作家に向いているのに編集者になりたいとか、編集者に向いているのに作家になりたいという人がいます。このように、
そういうときには両方やって、両方の修練をすればいいと僕は思います。一方が陰になれば、もう一方が陽になり、逆に、一方を表にしたら、もう一方は裏にまわすような修練の仕方をすればいいのです。そうすれば、どちらになるにしろ必ず役に立つはずです。
『真贋』(2007)より
コトバ:3
と言った覚えはありますね。
もともと僕の言葉じゃないんですよ。自分がそういうふうに言われたんです。
確か24歳ぐらいだったと思いますけど、僕は失業中で、何かっていうと東工大の、卒論をやるときにお世話になった助手の人のところに出掛けて行って、ダベって暇潰しをしてたんですよ。そこで、このままじゃ食っていけませんよ、何か就職の口はありませんかね、みたいなことを話してたわけですが、その時、たまたま仕事が忙しかったんでしょうけど、
「食べられないんだったら、君、人の物を盗って食ったっていいんだぜ」って言われちゃったんですよ。僕はハッとして、いろんなことに気がついてね。年配の数学の先生にも、同じようなことを言われてたんですよ。自分が困ったときにだけやって来るんじゃなくて、もっと毎日のように煩がられるほど通ってきて、仕事ないですか働き口探してくださいよってなって初めて、年寄りはやっと腰をあげるんだよ、と。「年寄りというのは、人に頼られるってことが嬉しいもんなんだよ」という、逆の言い方でしたけどね。
『悪人正機』(2001)より
コトバ:4
自分だけが決めたことでも何でもいいから、ちょっとでも長所があると思ったら、それを毎日、
って言えるような気がしますね。
『悪人正機』(2001)より
コトバ:5
会社において、
なんだってことです。明るくって、気持ちのいい建物が、少し歩けばコーヒーを飲めるとか盛り場に出られるような場所にあるっていう……そっちのほうが重要なんだってことなんです。
『悪人正機』(2001)より
コトバ:6
“「自分の実質」よりも相手によく思われるかもしれない”と思ったときは、依頼を断りますが、その懸念がないときは、依頼に応じます。
と思ったらね。
『超「20世紀論」(上)』(2000)より
コトバ:7
これは太宰治の小説の一節なんですけど「自分はへとへとになってからなお粘ることができます」って言葉があるんですね。
結局、頭良すぎてキレすぎる人は、何かポシャっちゃって、へとへとになったとき、もう全部やめちゃえって手を引いちゃうんです。潔(いそぎよ)いって言えば潔いんでしょうけど、頭はよく回るもんだから、やっぱり才能、才気の持っていきどころがないというか。(中略)
じたばたしろっていうことですかね。ほんとにダメだと思っても、じたばたしろっていう、ね。
『悪人正機』(2001)より
コトバ:8
その「休まない」ということは、なかなか、できることではないなぁとびっくりしていますけど。
つまり、タモリって人は、全力を尽くしているわけではないし、いいかげんと言えばいいかげんなんだけど、やっぱり、ひそかにやっていることのすごさは、ずいぶん感じるんです。前の日遅くまで酒飲んだって、ちゃんと出てくるんだから、一見どうってことがないように見えても、あれだけずっと続けるということは、なかなかできるものじゃないですね。
『悪人正機』(2001)より
コトバ:9
と言ってくれた教授がいました。
生活上の苦労はしましたが、長期の展望では不都合ではありませんでした。僕は元気を与えられた気がして、ただ一人でその勤め先を辞去しました。
『「芸術言語論」への覚書』(2008)より