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「人はなぜ、友達を作るのか?」糸井重里が吉本隆明のコトバの中から、そのヒントを探る

血縁とも恋人とも異なる「友達」というもの。多ければいいわけでもないけれど、ゼロでいいともまた言いづらい、不思議な存在です。なぜ人は友達を作るのでしょうか。吉本隆明さんの言葉の中に解決するヒントがありました。

初出:BRUTUS No.679『ほぼ日と作った、吉本隆明特集』(2010年2月1日発売)

edit: Ayako Sugano, Kouji Ikemoto, Hirono Tomita, Kohei Fukazawa, Tomonari Cotani

面接試験で「ぼくは友達がいっぱいいます」という「友達」を、社会的な友達だとしましょう。もう一方にいるのが、個人的な友達です。社会的な友達が、100人いても1000人いてもいいけど、みんな自分の役に立ってくれます。

しかし、個人的な友達というのは、まったく価値観が違うのです。個人的な友達は、「いる」とか「いない」とかを考えることすらどっちでもいいのです。それは、本当にうれしい友達ですよね。

「ぼくは友達がいっぱいいますよ」という人が目の前にいたら、そいつのことをなぜか嫌いになってしまいませんか?理由は、それが「金いっぱい持ってますよ」「権力いっぱい持ってます」ということと同じ意味があるからです。

そんなのだいたい言うほどじゃないよ、ということも、みんな知っています。言うほどじゃないものをひけらかすような人は、やっぱり友達として面白くないですよね。

友達がたくさんいると言っているのに、友達として面白くないヤツ……そういう構造がある、典型的な話です。だから、吉本さんも「そんなの大部分はウソですよ」と言うのです。

コトバ:1

九割の人がやることは一緒にやったほうがいいよ

『僕ならこう考える』(1997)より

コトバ:2

人間を外に引き出したほうがいい、社交的なほうがいい、こういう考え方は、メディアの発達とともに力を持ってくるんでしょう。インターネット、携帯電話と、コミュニケーション手段が発達していくのが最近の世の趨勢で、これに逆行することはできないんですが、

コミュニケーション自体が自己目的化したら、
それはちょっと病気です。

『人生とは何か』(2004)より

コトバ:3

普通の人間っていうのは、たいてい、幼い頃の友だちの存在を忘れたりとか、薄めたりとか、利害のことだけが先に来るとかっていうことになっていきますからね。実際、その時期の友だち関係をずっと持続できたら、文句なしで、それは本当に本当にたいしたもんなんです。なおかつ、そういう友だちがひとりでもふたりでもいたり、利害とか生死とか、そういう際どいものも含めて持続できたら、その友だちはその人にとって宝物みたいなもんなんでね。でも、たいていの人はそういうことはないんです。普通はゼロなんですよ。まあ特別な人で三人もいるよって人もいるでしょうけど、それは、それだけのことであってね。

よく「俺、友だちたくさんいるよ」なんて言うヤツいるけど、そんなの大部分はウソですよ(笑)。

結局、ほとんど全部の人が本当は友だちがゼロだと思うんです。もちろん、人間には性格的に社交家の人とそうじゃない人もいますよ。でも、社交家だからいいとか、そうじゃないと損でポツンとしてるってことはないんですよ。結局、どっちだって同じ、どうせひとりよ、ということなんです。月並みだけれども人生というのは孤独との闘いなんですから。

『悪人正機』(2001)より

コトバ:4

ぼくを気やすい隣人とかんがへてゐる働き人よ
ぼくはきみたちに近親憎悪を感じてゐるのだ
ぼくは秩序の敵であるとおなじにきみたちの敵だ

詩篇『転位のための十篇』(1953)所収「その秋のために」より

糸井さんのヒモトキ

社会的な友達と個人的な友達の2種類がある。
友達を数えるのは、ウソっぽい行為です。