「僕の番組のスタッフは、やさしい人じゃないと務まらないんです」とテレビ東京のディレクター、プロデューサーの上出遼平さんが言う。“僕の番組”とは、2017年に深夜枠で始まったドキュメンタリー番組『ハイパーハードボイルドグルメリポート』だ。
テーマは“ヤバい世界のヤバい奴らは何食ってんだ?”。シベリアのカルト教団村からリベリアの不法占拠墓地まで、危険地帯に1人っきりで突っ込んで、マフィアや娼婦や少年兵に声をかける。「よかったら、今日のご飯を見せてもらえませんか?」
「取材対象の多くは経済的には貧しい人や裏社会の人たちです。相手へのリスペクトがないと番組は成立しない。必要とされるやさしい人というのは、自分の弱さを知り、その劣等感と正面から向き合えている人です。そういう人は誰に会っても“この人には敵わない”という部分を最速で認めて引き出していく。
例えば、ケニアのゴミ山に暮らす青年ジョセフが、ゴミの山から掘り出したアスベストの板で、自然発火したゴミの火種を運んでメシを炊く知恵に、僕たちは心底感嘆したりするんです」
取材相手はそれを瞬時に感じ取り、対等な目線を向けてくれる。だからこそ危険で無謀でハードボイルドな光景の中に、ハッとするほどやさしい顔が映っていたりするのだ。
「ただ、純度100%のやさしさは存在しないという出発点に立った方が、世の中と賢い向き合い方ができるとも思っています。取材中、その日の自分の食事にも困っているような人が僕にスプーン一杯の飯を差し出してくれることは、すごくやさしいことだと思うんです。
だけどそこには、彼らにとって何か得なことがあるかもしれないという目論見や、人に与えることの快感もあるはずで。その意味で彼らが、100%利他的に純粋に、何かをしてくれてるということはほぼあり得ない。それでも僕が、彼らの行為に純度の高いやさしさを感じるのは、彼らが自分の力で生きているからのような気がします」
人がやさしさを発動するためには、人間として自立していることが出発点にある、と上出さんは言う。
「人間は孤独や孤立を克服することを求めていく存在だから、自立できていないと、社会との接点をとめどなく探し続けてしまう。安直に寄付をし続けることもその一種。
寄付って、自分が社会や世界と関わっていたいという欲望の現象の一つだし、自分が気持ちよくなりたくてするものがほとんどです。それを純度100%のやさしさととるのは危険です」
学生時代から“やさしい人”と言われがちだったという上出さん。
「そこには、相手をジャッジしないという僕の全肯定態度があると思います。突きつけられる正解にうんざりしていた高校時代、この世には“違う正解”があることを、パンクロックに教わったからかもしれません。音楽でも映画でも小説でもいい。違う正解があると教えてくれる存在は本当にやさしい。それが人を救うのは間違いないです」
ところで、海外のいろんなやさしさを見てきた上出さんは、日本人のやさしさをどう感じているのだろう。
「日本人は調和や共存という感覚のやさしさは持っているけれど、それは弱さとイコールでもあるし、困っている人を助けるというような行為を恥ずかしがる面もある。僕が求めるのはもっと強くて自立したやさしさです。それは生まれ持った性質というより、技能に近いものかもしれない。自分の気持ちよさと、やさしさを向ける相手の受け取り方とを区分する、そういう訓練によって手に入れられるものだという気がします」
では、純度100%のやさしさも、いつかは手に入るのだろうか。
「いや、自分という存在がある以上、完全に利他的なやさしさはないんじゃないですか。例えば僕、電車でめちゃくちゃ席を譲るんですけど、“大丈夫です”と断られると、なんともいえない気持ちになる。そこは大丈夫であってもありがとうって座ってくれたらなあ、と思ったりもする。でもそれってつまり、自分のためのやさしさなんですよね。100%、立っている人を思って発したことなら、“大丈夫なんだ。よかった”でいいじゃないですか」
人にやさしくすればいずれ自分に返ってくる、とよく言うけれど、やさしさは、発した瞬間からすでに自分のためである可能性の方がずっと高い。上出さんはそう考えている。
「ただ、どんなに純度が低くても、偽善に見えたとしても、誰かのために何かをしようとするやさしさは否定したくない。それは絶対です」