話を聞いた人:藤森照信(建築史家、建築家)
およそ築2000年。暗闇に光が差す、パンテオンの天窓
「ローマの〈パンテオン〉は、直径約43.3mのドームを持つ神殿。てっぺんに直径約9mの窓があり、太陽の光が降り注ぎます。窓にはガラスも何もはまってないので雨も入ってきますが、窓の原型としての“孔(あな)”が持つ潔い気持ちよさや、心がパーッと晴れる感じがある。これが、現存する世界最古の窓なのです」
建築家で建築史家の藤森照信さんがそう話す。「万神殿」とも呼ばれるパンテオンが建造されたのは紀元前25年。後に火事で焼失したため、現在残っているのは、128年に再建されたものだ。巨大な球体を丸ごと内包するようなコンクリート空間に入ると、はるか頭上にはオクルスと呼ばれる正円の孔。そこから差し込む光が時間とともに動き、建物の内部を順々に照らしていく。
一体なぜ、ドームのてっぺんに窓が開けられたのか。そのヒントとして藤森さんが教えてくれたのは、建築家・原広司の「有孔体理論」だ。
「真っ暗闇の死んだ空間は、そこに孔が開くことで光が入り込み、空気が流れ、人が動き、生きた建築になる、という考えです。僕はこの説にうんと衝撃を受けました」
ここで話は、約2万年前の旧石器時代まで遡る。舞台はフランス西南部にあるラスコーの洞窟だ。
「入口から地中深く潜り、さらに数十m進んだ場所に、鹿や牛の壁画が描かれている。人々は外界から切り離された暗闇を生命を司(つかさど)る地母神(ちぼしん)の空間だと考えたのでしょう。自分たちが狩って食料にした獲物の蘇りを祈り、絵を描いた。つまり洞窟の闇は“あの世”。まだ孔はありません」
そんな世界に孔が開くのは、農耕が始まった新石器時代。人々は太陽こそが植物を育て、それを食べる動物をも生かしているのだと気がついた。信仰の対象は地母神から太陽神へと変化。太陽への憧れや崇拝を示すため、巨石や巨木の柱を天に向けて立てるようにもなった。
「やがて、建物に孔を開け、太陽の光を建築へ導き入れるというようなことも始まります。パンテオンはすべてのローマ神を祀(まつ)る汎神殿ですから、この天窓も太陽信仰を象徴するもののはず。神殿にいる神々を太陽の光が照らす形は、その後の西洋の宗教建築の基本になりました」
さて、では現存する日本最古の窓はどこにあるのだろう。答えは日本最古の木造建築、奈良の〈法隆寺〉。細長い格子を連ねて木枠にはめた「連子(れんじ)窓」がそれだといわれている。法隆寺の連子窓があるのは回廊の壁。ローマの神殿は天窓からの光で神々を照らしたが、日本の寺院建築に、降り注ぐ光で仏様を照らす……というような概念は、おそらくなかった。
「そもそも、建築における窓の成り立ちが、西洋と日本では違うんです」と藤森さんは言う。
「海外の建築は“壁”が原点。まず異民族や獣などの外敵から食糧や家族を守るための強固な壁があり、そこに窓や出入口を開けました。西アジアのアナトリアにある世界最古の都市遺跡チャタル・ヒュユクには、紀元前7000年頃の集落跡がありますが、住居は壁だけで窓がほとんどない。外と行き来する時は外壁にハシゴを掛け、屋上から出入りしたとされています」

一方、日本の伝統建築の中心は柱。柱を立てて梁(はり)を架ければ構造体になるから、石や煉瓦で壁を造る必要はない。そこに現れるのは開口部だ。
「壁に孔を開けて光や風を通したものを窓と呼ぶなら、壁のない日本の伝統建築に、窓はほとんどなかったと言えるでしょう。とはいえ、柱と梁で骨組みを造った日本人は、開口部という孔に蔀戸(しとみど)や障子やガラスといった知恵を組み合わせ、快適な空間を生み出してきた。人類はなぜ窓を造ってきたのか。答えは西洋と日本で異なるけれど、そこに孔があることに変わりはありません。暗闇に孔が開いて光が入り、建築は生きた建築になってきた、ということです」