短歌、俳句、歌詞。固有の魅力とは?
佐藤文香(以下、佐藤)
柴田さんの新しいアルバムがとても好きなんですが、中でも「Synergy」の「ねずみ色の羊雲に染み込み 日差しになり代わり馴染むオレンジ」(柴田聡子「Synergy」より)。
「ねずみ/いろのひつじぐもにし/みこみ〜」と、意味とは違うところで切って、「み」と「し」で韻を踏んでいる。気持ちが伝わるわけじゃないのに何かが伝わってきて、それが歌い出しということにも驚きます。歌詞だけでなく音楽全体が、私の思う詩だなと。「ねずみ」「羊」と動物の比喩が並ぶのも、テクニカルですよね。
柴田聡子(以下、柴田)
ありがとうございます。ねずみ色の羊雲は、たしかに見たんです。私は割と事実ベースで、そのまま書くことが多いです。
佐藤
写実的な書き方は、私も近いかなと。木下さんは逆のイメージがありますが、どうですか。
木下龍也(以下、木下)
そうですね。どう読まれるかを意識します。そのまま出すのは怖くてできないです。今回、俳句や歌詞との違いが語れそうな短歌として選んだのは「ゴキブリは怖がられてて汚くて 私を大学に入れてくれた」(あゆこ/作、文芸誌『群像』2023年10月号連載「群像短歌部」収録)。
文芸誌で読者から投稿された短歌です。実は作者はゴキブリの研究が認められて、大学に入ることができた方で。短歌は31音しかないから、ものすごく省略している。
佐藤
ゴキブリは換喩なのかと思いました。ゴキブリがいる古い一軒家のような家で育ててくれた、そんな家庭の象徴なのかと。
木下
そうなんです。親をゴキブリと呼んでいるのかなとか。削っているからこそ、驚くべき歌になっている。そこが面白い。
佐藤
ゴキブリが何かの暗喩じゃないかとか、書かれた言葉の奥の意味を見つけに行くのは現代詩も同じで。逆に、書かれたままに読めるのが俳句かなと。例えば「秋風の下にゐるのはほろほろ鳥」(富澤赤黄男/作、『天の狼』より(『現代俳句の世界16』収録))。
ほろほろ鳥が何かの象徴で、秋風は今の時世を表している、わけではない。ただ秋風が吹いており、ただ鳥がいる。おお、いいな……みたいな。
柴田
面白い。初めて聞きました。
佐藤
でも、それで終わりというわけでもなくて。「秋風」というのは季語で、様々なイメージや歴史的背景を持っている。例えば「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(藤原敏行/作、『古今和歌集』収録)という歌がある。
そう思うと、これは、ただの秋風じゃなくて、去年も、100年前も、1000年前も吹いていた秋風の下に、リアルほろほろ鳥がいるという。ずんぐりした体や青い顔を思い起こしてそこにいることを想像します。季語に意味やイメージの蓄積があるから、鳥が輝くんです。
木下
その季語が使われてきた歴史の全部に頼れるんですね。
佐藤
魔法なんですよ。ただし、俳句という小さな島の中でしか使えない魔法で、それが俳句のとっつきにくいところでもある。
柴田
今伺っていて、歌詞は短歌や俳句と比べると、みんな野放しに、ストリートで学んで書いているかもしれません。季語のような共有の魔法も、技術を体系立てられることもない。音楽の中で歌詞は音の付属物になることもあるので、ずっと上に立っているわけでもない。
そういう中で、歌詞ならではの表現として、しゃべり言葉のメロディから外れるというのがあるかなと。例えば「とびら開けて」という、『アナと雪の女王』の曲の歌詞。こういうメロディで人に言うことは絶対ない。
佐藤
でも、「て」の音の急上昇、開ける感じはすごいしますよね。翻訳によるマジックとも言える。
柴田
そうなんです。何かとてつもないカタルシスがある。自分たちの会話にもずっとメロディがあるし、俳句や短歌や詩を読むときもメロディがあると思うんですけど、それを破ってくるところが歌詞にはあるのかなと思いました。
心に響く言葉はどこが違うのか
柴田
私は、茨木のり子さんの「歳月」という詩の「歳月だけではないでしょう/たった一日っきりの/稲妻のような真実を/抱きしめて生き抜いている人もいますもの」(茨木のり子「歳月」より(『茨木のり子全詩集』収録))という言葉も、心に常にあります。たった一日でも、生きるための理由があった日があれば、その稲妻が一つあれば、そこにすがりついて生きていてもいいんだなと。
佐藤
結構、セリフが好きですか。
柴田
そうかもしれないです。
佐藤
言葉は文字である以前に音で、音には声が伴うから、歌を生業(なりわい)にされている方が、セリフや声に出す言葉に敏感なのは面白いなと。
柴田
現実にはないようなしゃべり言葉でも、本当に現実味を帯びて感じることもあって、面白いです。
佐藤
話すことを扱った作品として、詩人の青野暦さんの「会話」という作品で、「好きなものはなにときかれて/答えにつまった/本は好きだけど/そんなことはもう知っているよな」(青野暦「会話」より(『冬の森番』収録))。これが相当キュンときて。実際の発話なら「い」を抜いて「知ってるよな」になる気がします。だからこれは、今までのあなたとの会話を思い出して心の中で確認しているんじゃないかと。青野さんは言葉に実があって、同時代の心の詰まった詩を書かれる方で、すごく好きですね。
木下
自分の作品で特に時間をかけたのは、「いじわるな星だとしても母さんがそこにいるなら生まれてみるよ」(木下龍也/作、『あなたのための短歌集』より)。
読者からのお題に応えて作りました。「結婚して3年目。もともと子供はそれほど好きじゃなかったけど、自分の子が欲しいと思うようになった。でも、現代は本当に大変な世の中なので、生まれた子は幸せになれるだろうかと悩むときもある。未来に希望が持てる短歌をお願いします」というお題で。僕が希望を持てる短歌を書けなかったら、この子が生まれない可能性があるんじゃないかと思って。
柴田
それはすごいことですね。
木下
すごく考えて、これから生まれてくるかもしれない子に視点をずらして書いたんです。
佐藤
お母さんの迷いはカットして、「いじわるな星」と環境をマイナス要素にしているから、ちゃんと希望に結びつく。生まれた子が読んでも大丈夫にできていて、すごくうまいです。自作で推敲を重ねたのは、「見える」という詩の「空は布 草は笛 ゆたかな心ではいられない」(佐藤文香「見える」より(『渡す手』収録))という箇所です。
柴田
読んだときに、何か焦点が合わず、すごく面白かった詩です。
佐藤
「ゆたかな心ではいられない」が先にあって。だから、「ゆたかな心」になりそうなものを置かないといけなかった。空が布だとしたら、かなりたっぷり感があるし、草が笛だったら、野原の楽しげな感じがすごくある。続く一行で裏切るために、イメージの広がるものを選びました。
伝わりづらい言葉こそ可能性がある
木下
今はいろんなことが炎上しやすいですよね。どれだけ言葉の精度を高めても、その言葉を置く場所を間違えれば、誰かを傷つける。
柴田
本当に。私も今SNSは、告知しかしていないです。リンクと、「よろしくおねがいします!!!」と、びっくりマークの多さでボリュームを上げたりして。でも最近は友達とのやりとりもそんな感じで、それは駄目かもとも思っています。
佐藤
他者に影響を与えようとして書く言葉、伝わりやすい言葉の危なさについては、よく考えます。
柴田
そうですね。本当に。
佐藤
だからやっぱり、詩のような、パッとは伝わらないものの良さが今、大事かなと。現代詩作家の荒川洋治さんが、この前、大岡信賞を受賞したときにそれをおっしゃっていて。
「『易々(やすやす)と伝わる』あるいは『伝わりすぎる』ことは、ことばにできない領域や、本来見るべきものを切り捨てているあかしでもある」「詩のことばは普段から、光の届かないところ、見えない場所を漂っているので、隠れたもの、消えていくものを指し示す可能性をひめる」と。
全くその通りだなと。パッと届く言葉だけを受け取るんじゃなくて、読者の側も受け取りに行くような。わからないことを自分で調べたり、初めて知ること自体を面白がったりするような環境になると、一つのわかりやすさで炎上するみたいなことから、遠くなるのかなと思いますね。