渡辺貞夫さん、“ジャズ”は人生ですか?
「世界のナベサダ」こと渡辺貞夫は、日本のジャズのパイオニアであることは誰もが認めるところだろう。実際、渡辺は戦後間もなくジャズと出会い、その後のミュージシャンとしてのキャリアは、そのまま日本のジャズの歴史と重なる。
1933年に宇都宮市に生まれた渡辺は、12歳の時に終戦を迎える。
「日本が負けて1週間も経たないうちに進駐軍放送が始まりました。ジャズ、ハワイアン、ヒルビリー。アメリカの明るい音楽が一気に流れてきたんです。それに、音楽映画もいろいろ入ってきました。僕の1級上の山内さんという人のお父さんが、電気館という映画館の支配人で、そこで観た『ブルースの誕生』が決定的でした。ニューオーリンズの波止場で、黒人たちがディキシーランド・ジャズを演奏しているところに、少年が横から入ってクラリネットを吹くんですが、その少年に憧れたんですよね」
そのうち渡辺は、父親にねだって中古のクラリネットを手に入れた。日本ではジャズといえば、まだベニー・グッドマンに象徴されるスウィングジャズの時代だった。
「親に買ってもらったはいいけど、どうやって吹いたらいいかはわからない(笑)。それで、駄菓子屋のおじさんが、昔クラリネットを吹いていたというので、1回10円で3日間通って教えてもらいました。後は自己流です。でも、まだほとんど吹けない僕を、電気館の山内さんがタンゴバンドをやっていて、雇ってくれました。ほとんど突っ立っているだけだったんですが(笑)。15歳の頃です」
そして、渡辺はいよいよサックスと出会う。
「これも映画です。ソニア・へニーというスケーター主演の『銀盤の女王』という映画にレス・ブラウンのビッグバンドが出てくるんです。それで、サキソフォンに憧れましてね。カッコいい楽器だなあって。それでまた親父にねだって、東京で、日本製のタナベの新品を買ってもらいました。2万4000円もしたんです。
でも、上京してサックスを吹くようになったら、どうしてもアメリカ製のが欲しくなって、軍の払い下げのキングの中古を4万円で買いました。そうしたら、少年がそんな大金をどうしたんだと、警視庁が調べに来て(笑)。でも、僕はその頃、昼は銀座の松坂屋の地下のオアシスでギャラを5000円もらっていて、夜は並木通りのファンタジアで1万2000円もらっていましたからね。17~18歳の頃の話です」
この頃の日本は、進駐軍の需要もあり、ジャズの演奏者は、キャンプやクラブで引っ張りだこだった。そんな中、渡辺は、アメリカで盛り上がってきていた、即興演奏に主軸を置いたビバップに傾倒する。それを、当時まだ高価だったレコードから吸収していった。
「初任給が7000円の時代に、レコードは3800円もしました。最初はもっぱら、ジャズ喫茶で聴いていました。有楽町のコンボという店によく出入りしていたんですが、最新のモダンジャズはここでしか聴けなかった。そして、ようやく買った最初のレコードは、マイルス・デイヴィスの『ヤング・マン・ウィズ・ア・ホーン』という10インチで、僕の3畳の下宿に高柳昌行など集まってきて、みんなで擦り切れるほど聴きましたね。そこに秋吉さんもいました」
アメリカに渡って触れた、多様なジャズと音楽のあり方
そのもう一人のパイオニア、秋吉敏子は、渡辺に先んじてアメリカのバークリー音楽院に留学した。そして渡辺は、秋吉から次はあなたの番だと指名され、いよいよ62年に渡米するのだが、これがその後の日本のジャズ界に大きな影響を与えることになる。
ジャズの本場で本格的に理論を学び、様々な大物ミュージシャンとセッションして帰国した渡辺の元に、菊地雅章や山下洋輔といった若き才能が続々と集まってきたのだ。さらに、このアメリカでの体験は、渡辺の音楽性にも大きな影響を与えることになった。
「それまでは、黒人の作る音楽一辺倒だったのですが、やはり、ゲイリー・マクファーランドとの出会いが大きいですね。ビートルズのカバーとか、初めは戸惑いもしましたが、どんどんジャズ以外のボサノヴァのような音楽にもハマっていった。リハーサルで、ゲイリーがちょっとしたフレーズをバイブ(ビブラフォン)で叩くんですけど、全部カッコいいんですよね。圧倒されました。彼のミュージシャンシップや人柄にも参ったわけなんですけど」
そして、渡辺はゲイリーを通して出会ったブラジル音楽の魅力を、帰国後日本で広めていき、一大ボサノヴァブームが起こった。
「日本に帰ってきて思ったのは、ジャズクラブの聴衆が暗いんです。それならサンバのリズムが面白いと思って。そのうち、聴衆が少しずつ変化していきました。京都会館でコンサートをやった時に、最後にサンバを始めたら、聴衆が全員立ち上がってステージの前に集まってきました」
渡辺は、日本のみならず、ニューポートやモントルーなどの国際的に知名度の高いジャズフェスティバルにも招聘(しょうへい)され、海外でも評価がうなぎ上りになっていく。「世界のナベサダ」と呼ばれる所以である。また渡辺は、60年代後半にブラジルを初めて訪れ、現地のミュージシャンとセッションしたり、70年代にはジャズの起源となるアフリカを旅したりし、それらの影響下に『マイ・ディア・ライフ』を録音する。
「その土地に行って、土地の人々の生き方というか生活からすごく影響は受けますね。タンザニアのマニャラ湖国立公園に行った時、たまたま鳥が15羽くらいいたんですが、その鳴き声がまさにブルースなんですよ(笑)。ブルースの源泉を見る思いがしました」
そのように、渡辺の関心は、ジャズを媒介にしながらも、民族音楽へと広がっていった。また渡辺は、70年代から電気楽器を取り入れ、いわゆるフュージョンにも接近する。そして、大ヒットアルバム『カリフォルニア・シャワー』が生まれるのだが、渡辺は必ずしもその成功に溺れていたわけではないようだ。
「それこそ、僕は雑食というか、いろいろなジャンルの音楽に手を出した。それを、あの当時のジャズ評論家に叩かれましてね。渡辺は変節したって(笑)。だから、その反抗の気持ちもあって、ロサンゼルスで『マイ・ディア・ライフ』を作ったその足でニューヨークに行って、ハンク・ジョーンズとストレートアヘッドなアルバム『アイム・オールド・ファッション』を作りました」
しかし、その雑食性がジャズの地平を広げていったことは間違いないし、それは、現代のシーンを担う若い世代のミュージシャンたちの共通認識でもある。一方で、渡辺は常々自分の音楽の核にあるのはビバップだと言っているが、だからこそ、これだけ多種多様な音楽をやってもブレないのだろう。渡辺は最近でも、『リバップ』という原点回帰でもあり、ビバップへの新たな解釈にも取り組んだアルバムを作っている。
今が演奏していて一番楽しいんですよね
そんな渡辺も、2021年に音楽生活70周年、また2023年めでたく卒寿を迎えたが、音源制作や演奏活動において、ますます意気盛んなのには目を見張るものがある。
「日課としては、朝5時に起きて散歩。朝食後に2時間くらい楽器の練習。そして、午後には1時間くらいウォーキングする途中でスクワットとかやっていますね。若い頃の自分の演奏を聴くと、元気が良いというか、かなり長いフレーズも吹いているんですが、今はさすがにそういうふうにはいかないですけど、毎日音は磨いています。今が演奏していて一番楽しいです」
そんな渡辺に、改めてジャズの魅力とは何か尋ねてみた。
「テーマが大きすぎますけど(笑)、ミュージシャンが、演奏を通して、それぞれ自分のメッセージを伝えられる、それがジャズの魅力だと思います。だから、もっとミュージシャンの交流があってしかるべきです。僕らの若い頃は溜まり場があった。それぞれ別の仕事をしていても、夜中に銀座に集まって、ジャムセッションするような、そんな日常がありました」
確かに、今はそういう場は失われてしまったのかもしれないけれど、そんな場所で、渡辺が、今の若い世代のミュージシャンたちと心から楽しそうにセッションする姿をぼんやりと思い描いてしまった。