〈夏葉社〉代表・島田潤一郎が長編小説を携えて行く、あの旅先

次の長旅の目的地を小説から選ぶのはどうだろう。〈夏葉社〉島田潤一郎さんに時間をかけて読みたい6作品と旅先を選んでもらった。

text: Ikuko Hyodo

ダブリン/アイルランド

ダブリンとそこに暮らす人々を優しく見つめた『ユリシーズ』

「もしダブリンがなくなっても、『ユリシーズ』があれば町を復活できるはずだとジェイムズ・ジョイスが言ったくらい、町と呼応した小説です。ちなみに僕はこれを読んで、実際にダブリンに行きました」。全4巻にわたって流れる時間は、たったの1日。

「6月16日は、主人公にちなんで“ブルームの日”という記念日になっていて、今もダブリン市民に愛されています。ジョイスが描いたのはごく普通の人の生活で、町とそこに生きる名もなき人たちへの温かさに溢れているんです」。

章ごとに文体が変わるのが本作の特徴で、中には難解なパートも。「長い小説を読むコツは、多少わからなくても立ち止まらず、先に進むこと。そうすると、最後にご褒美が待っているはずです」

成都/中国

『西遊記』で日々味わう、型にハマった物語の心地よさ

『西遊記』は子供向けの物語というイメージが強いかもしれないが、原作は全10巻の大ボリューム。

「コロナ禍で時間ができて、長い物語を読んでみようと手に取ったのですが、三蔵法師が魔物に捕まって孫悟空が大暴れする展開の繰り返し。だけどその単調さが妙に落ち着くんです。三蔵法師は思ったほど聖人ではないし、猪八戒は声を出して笑ってしまうほどユニーク。16世紀に完成した物語といわれていますが、読めば読むほど中国の奥深さを感じます」。

作中に実際の地名はほぼ出てこないため、島田さんは以前旅した成都をチョイス。「昔ながらの屋台なのに支払いはスマホ決済のみだったりして、『西遊記』を読んでいるとそのアンバランスさをさらに楽しめそうです」

メゾン=ラフィット/フランス

対照的な兄弟の人生に思いを馳せる『チボー家の人々』

第一次世界大戦前夜のフランスを舞台に始まる『チボー家の人々』は、18年にわたって発表され、日本では全13巻にまとめられている。

「厳格なチボー家に育った性格の異なる兄弟の物語で、医師になる真面目な兄の人生と、政治活動に身を投じるロマンティストの弟の波瀾万丈の人生がそれぞれの視点で描かれます。読む時の自分の年齢によって、共感する人物が変わってきそうなところも面白く、13巻もあるので読み終わる頃には、まるで彼らの人生全般に触れたような、思い入れを抱いているはずです」。

メゾン=ラフィットはチボー家の別荘があるパリ郊外の町で、夏の休暇を過ごす場所。彼らが暮らしたパリと行き来しながら、クラシックな小説の世界に没入したい。

上海/中国

若きアナーキストが向かった上海で読む『いやな感じ』

「こんなにすさまじい小説があったのかと驚かされる、今読むべき日本近代文学の“古典”」と評する高見順の『いやな感じ』は、タイトル通りの読み心地なのだが、読み進めずにはいられない吸引力に満ちている。

「アナーキストの男が主人公なのですが、若さゆえに気力・体力があり余っていて、見境なく何かをやりたい衝動に駆られています」。男は最終的に上海に向かい、殺人に加担する……。

「日中戦争に突入する頃の話で、主人公は日本兵によって荒らされた中国を目の当たりに。鬱屈した世の中で戦争というはけ口を見つけて、歯止めが利かなくなる感覚は、現代と何かしら通じるところも。上海でのラストは本当に衝撃的だけど、今読んでも全く古びていません」

ウラジオストク/ロシア

長い移動時間が、最高の読書体験になる『悪霊』

ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』など大作が多いが、島田さんのイチオシは『悪霊』。

「僕の印象ですが、10分の9くらいまではそれほど面白くない(笑)。でも最後はパンチが効いていて、今までの時間はこのための序章だったと思うほど圧倒されます。主人公のスタヴローギンは、化け物みたいな比類ない人物設定で、作者も持て余すくらい強烈な悪が描かれています」。そんな問題作に没頭したいのが、ウラジオストクから乗るシベリア鉄道。

「読書を長時間する環境として、これほどの贅沢はないでしょう。シベリア鉄道に乗るならどんな本を持っていくのか、想像するところから旅は始まっている。今は難しいけど、いつか乗ってみたいですね」

戸隠/長野

『水車小屋のネネ』で感じる、自分が受けてきた数々の良心

津村記久子の小説では最も長く、総ページ数は500ページ弱。「ろくでもない親から逃れて、18歳と8歳の姉妹がとある町に辿り着き、水車小屋の近くで暮らし始めるのですが、いろんな人がちょっとずつ親切にしてくれるんです。“誰かに親切にしなきゃ、人生は長く退屈なものですよ”という登場人物のセリフが、この小説の魅力を言い表しています」。

具体的な地名は出てこないものの、山間の町、水車小屋、蕎麦屋などの設定から、読みたい場所として長野をイメージ。「1981年から2021年まで姉妹の40年間を描いているのですが、読み終わったあと長い時間が流れたんだなと充足感に満たされ、幸せな気持ちになることが。これこそ、長編小説を読む醍醐味だと思います」