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一世一代の旅、南極。日本往復15日間中、わずか4日半の南極滞在

荒波を乗り越え、まだ見ぬ世界へ。静寂が支配する地球の果てへの旅。

Photo: Tetsuya Ito / Text: Ro Tajima

旅は始まった

「ディス・イズ・アンタークティカ」
ベッドの上で腰を押しつけながら必死に横になっていると、船長のアナウンスが船内中に鳴り響いた。

悪天候で出港が1日遅れ、やっとのことでウシュアイアの港を発ってからさらに1日。世界で最も荒れる海、と恐れられるドレーク海峡に差しかかると、海は表情を一変させた。猛烈な台風に匹敵するほどの、風速50m毎秒もの風が容赦なく襲いかかる。立っていられないほどではなく、寝てもいられないほどの揺れ。優雅なクルーズ旅行からは程遠い。

「今、私たちは、世界一激しい海の真ん中にいます。昨日無理して出港した船は被害に遭い港に戻り、旅はキャンセルされました。この嵐は、昨日よりは穏やかで、私たちが南極にたどり着けることは明白です。でも、これが南極です」

多くの海を渡ったであろう船長の、穏やかで自信に満ちた声。これが南極ですとはずいぶん乱暴な言い訳だな、と思いつつも、この大陸が人々を寄せ付けず、同時に人々の心を虜(とりこ)にしてきたことを考えると、〝洗礼〞は当たり前なのかもしれない。アムンゼンもスコットも、シャクルトンも浴びた洗礼の中で、船長の声に安堵の念を抱いたのか、気がつけばいつしか眠りに落ちていた。

目が覚めると、海は穏やかさを取り戻していた。どうやらドレーク海峡を抜けたらしい。しばらくすると陸地も見えてきた。上陸時に着る服や持ち物に別の土などが付いていないか確認するバイオセキュリティチェックも始まり、まだ見ぬ絶景への期待が高まる。ようやくにして、私たちは〝南極〞にたどり着いたのだ。

〝南極〞と書いたのは、最初に到着したバリエントス島は厳密に言うと、南極〝大陸〞ではないからだ。南極半島のすぐそばに浮かぶサウスシェトランド諸島。だが1961年に定められた南極条約では「南緯60度以南の地域」について、その平和的利用や領土権主張の凍結、科学的調査の自由に国際協力の促進などを定めている。南緯62度過ぎに位置するこの島は、れっきとした〝南極〞の一部なのだ。

防寒具で身を固め、探検船からゾディアックボート(頑丈なゴムボード)に乗り込む。陸地が眼前に迫ってくる。湧き起こる高揚感を抑えながらも、ここはまだ南極大陸じゃないんだ、だから今日のところは明日の予行演習といこうか、なんて訳の分からないことを考える。

降り立ったバリエントス島はヒゲペンギンやジェンツーペンギンの営巣地。私たちが訪れた2月はこちらでは夏の終わりに当たるため、雪が溶け大地は剝(む)き出し、苔生(こけむ)しているところも見られる。海沿いを歩いていたら次第に汗ばんできて、5枚重ねしていた服を2枚を脱ぐことに。

実は南極半島の年平均気温はマイナス5°C、夏の太陽が出ている日中は0°Cを下回らないくらいなのだ。腰を下ろし、燦々(さんさん)と輝く太陽を浴びながらぎゅうぎゅうにひしめくペンギンたちと奥に広がる島々を眺めていたら、ここがあの想像していた南極とは信じられず、なんとも不思議な気分になる。

それほどまでに穏やかで、静かな時間。隣のハーフームーン島に立つアルゼンチンのカマラ基地を訪れ、隊員たちが淹(い)れてくれたコーヒーをいただく。体も温まったところで船へと戻る。地球の果てでの一日が終わろうとしていた。

南極_氷河の断面
氷河の断面。長い年月をかけて雪が堆積したその断面は、まるで地層のようでもある。

快晴の日も、吹雪の日も
南極にしかない絶景があった

2日目。目覚めると、目の前には大きな岩山があった。南極半島の最北端、ブラウン・ブラフだ。昨日の失敗を踏まえて防寒具は4枚とし、小舟へと乗り込む。あらためましてこんにちは。いよいよ南極〝大陸〞への上陸だ。

一歩一歩、雪を踏みしめ、感触を確かめる。ホントは飛び上がりたいくらいだよ、と感慨に浸っていると、後ろに続いていたスペイン人たちが小躍りしている。そりゃあ、あんな荒波乗り越えて来たんだもの、喜びは大きいよね。と、こちらも慌てて感情をあらわにする。

735mの断崖絶壁を横目に小高い場所まで登りあたりを見渡せば、一面の銀世界が続く。探検家たちが命を賭して挑んだ南極点は遥か先。でも日本から考えれば、すぐそこにあるのもまた事実だ。年平均マイナス50°Cの極寒の地を憶(おも)いながら、ぽかぽかの陽気の中、また服を2枚脱いでいた。

が、船に戻りランチをとる間に、気候は急変する。打って変わっての大吹雪。前菜を食べながら、なんだか穏やかで〝南極感〞に欠けるよなあ、なんて冗談を口にしたからか。ついに午後に予定されていたホープ湾への上陸はキャンセルとなってしまう。部屋で悶々と窓の外を眺めていると、船長のアナウンスが入った。

「皆様の安全を確保するために、急遽予定を変更し、天気の良いポイントへと移動します。と言っても、その場所に着いた時に晴れているかどうかは絶対とは言えません。でも、これが南極です」

これが南極です。再び聞いた言葉だが、前より説得力を感じてしまったのは、その優しさも恐ろしさも見てしまったからだろうか。そう、これが南極なのだ。

翌日はサウス・シェトランド諸島まで戻り、火山島デセプション島に上陸することに。20世紀初頭に行われた鯨油生産の施設跡や天然の〝温泉〞もあるこの島だが、雪の中ではぬるま湯につかる人もいない。そして午後には再びの大吹雪。でも、船内は明るい雰囲気に満ちていた。

大自然に弄(もてあそ)ばれることさえ楽しんでいた。ここは人類が定住することさえ出来なかった土地。私たちはその偉大さを、ほんの少し覗かせてもらっているのだから。

やがて雪は収まり、船は再び南極半島へと舵を切った。南極一の景勝地とも言われるルメール海峡。プレノー湾では巨大な氷山の間をすり抜け、パラダイス湾では圧倒的な氷河を目の前に。ポート・ロックロイにあるイギリスの気象観測基地だった小さな博物館に立ち寄り、船は最後の目的地、オルネ湾へと到着した。

標高286mのスピゴット峰の頂に登ると、岩と岩との合間にヒゲペンギンの営巣地が見える。そっと覗くと、そこには美しい山々をバックに、何百ものペンギンたちが気持ち良さそうに佇んでいた。見たことの無い絶景。そこにいた誰もが興奮し、誰もが息をのんでいた。いつしか、空は晴れ渡っていた。

日本往復15日間中、わずか4日半の南極滞在。東京に戻り「南極まで行って何があったの?」と聞かれても、答えに窮することが多い。素朴に氷とペンギンと答えたところで、それは正しくはないからだ。

南極には〝無〞があった。南極には〝果て〞があった。南極には私たちが敵わないもの全てがあったし、憧れるもの全てがあった。それを目の当たりにできるなら、費やす時間なんて惜しくない。

南極を訪れることは
地球を深く知ること

一般人には行きにくいイメージのある南極だが、実は様々なアクセス方法がある。コストさえ厭(いと)わなければ南極点へのフライトだって不可能ではないし、チリのプンタアレナスからキングジョージ島までフライトし船に乗り換えるというものもある。

オーストラリアからニュージーランドからも(南極までの距離はやや遠いが)船が出ている。しかしお勧めはやはり、アルゼンチン最南端の町ウシュアイアからクルーズ船に乗る方法。いくつかの船会社が運航していて本数も多く、コストも他に比べれば安上がりだ。

今回乗船したシルバーシー・エクスペディション号は世界有数のクルーズ会社シルバーシーの探検バージョン。南極の他にも北極やガラパゴスに行くクルーズがあり、この4月からシルバー・ディスカバラー号も就航、9月には新しく小樽から屋久島や西表島(いりおもてじま)を巡り台湾の基隆(キールン)へ向かう便も。

船内には多くの研究者たちがガイドとして乗船し、移動時にはさまざまなレクチャーが船内で行われる。目的地のそばまで船で近づけば、ゾディアックボートに乗り換え各ポイントに上陸。船に戻ると暖かい食事が待っている。

年々規制が強まり南極への観光客は減少しているが今も年間2万人弱が訪れており、環境を損なわないための配慮が必要だ。南極条約ではペンギンや鳥とは5m以上距離をとるなど多くのルールが定められ、細菌や植物の種を持ち込まないよう靴底の洗浄や持ち物のチェックも徹底している。

日本では環境大臣への届出書提出が必須だ。では、各国が研究・調査を行う場所である南極に、観光客が訪れるという事実をどう捉えるのか。クルーズのエクスペディションリーダーでありバイオロジストのカラ・ウェラーに話を聞くと、こんな答えが返ってきた。

「このような自然環境がまだ残されているということを、みな体感する必要があると思います。そうすることで、この地球を大事にして生きようと考えることができる。そのためにも私たちは十分注意をしながら旅を続けているし、人々にこの絶景を見て欲しいと思っているわ」

人類がこの手に収めることのできなかったただ一つの土地、南極。地球環境を映し出す鏡でもあるこの場所を、私たちはもっと知るべきなのかもしれない。