映画は観客の魂を揺さぶる芸術でなければいけない
———“食”と“美”が本作の大きなモチーフですが、なによりまず印象的なのは物語と調和した、見るからにおいしそうな料理の数々です。
トラン・アン・ユン
他の映画では、たいてい料理が物語の従属物になっていますよね。でも本作の原作『The Life and Passion of Dodin Bouffant, Gourmet(美食家ドダン・ブーファンの生涯と情熱)』は、愛する女の心を男が食を通じて奪うというストーリーでした。だから食と物語をうまく調和させることができたんだと思います。
人生の美はそこにこそある
———際立つのはさまざまな音です。食材を切るとか、湯を沸かすとか、そういった調理の工程で生まれる音や、鳥のさえずり、虫の音、カエルや犬の鳴き声が、本作では繊細に表現されています。その一方で劇伴、つまり映画音楽はまったく使われません。そのような音の表現をした理由は?
トラン
僕自身は音楽が大好きなんです。音楽を使うことは僕自身の喜びでもあるし、音楽によって映画の感情表現は豊かになると思っています。特に本作のような恋愛劇の場合は。でも恋する気持ちや胸の高鳴りを演出していて、その演出に音楽性があると感じたんです。演出そのものがまるで一つの楽曲みたいだなと。だから編集の段階で音楽はいらないと判断しました。
———『ノルウェイの森』などの過去作と同じように、本作にも視覚的な美しさが充溢しています。と同時に、本作で試みた音の表現からは、聴覚的な美しさを追求する堅固な意志が感じられました。
トラン
聴覚的な美を描くことは、僕にとって大きな挑戦でした。ただ本作の物質的要素 肉や野菜、沸騰するお湯などをありのままに、シンプルに表象することができれば、観客はそこに音楽を聴き取り、美を感じ取ってくれるはずだと信じていました。そういった素材から生まれる音の存在感が大きかったので、音楽を排除できたといってもいいかもしれません。
———本作の舞台は19世紀末のフランスですが、これまでの作品もほとんどが過去の物語です。理想とする美の形は、もはや過去にしか存在しない?
トラン
いえ、そうではありません。僕が過去を舞台にするのは、映画祭や映画批評家が現代的な問題を扱った作品を過度に評価しているからです。そういった作品を作る方が評価を得やすいのかもしれませんが、僕はその安易さではなく、あえて困難さを引き受けようと思いました。
———本作には、愛することの喜びと失うことの悲しみがどちらも描かれています。作品を観ながら、そこにこそ人生の美しさはあるのだと感じました。
トラン
おっしゃるように、それこそが人生の美です。私たちは日々、何かを失っています。僕には子供がいますが、例えば10歳になった我が子からは、2歳のときの彼/彼女が失われています。でもその変化に立ち会えるのは幸せなことです。そしてその年齢ごとに、子供たちを愛してきました。だから失うことは恐怖ではありません。今後、人生が続いていき、究極的には自分の命が失われるときにも恐れを感じない、むしろ喜びを感じられるような境地に達することが僕の望みです。
———以前の発言ですが、「美しいものを撮ろうとすると資金を集めにくい」と話していました。状況は今も変わりませんか?
トラン
ええ、先ほども話したように、今の映画界では時事的な問題や社会的な問題をリアリスティックに描くことが好まれています。そして美を描くことがないがしろにされていると感じます。たしかに映画で美を描こうとすると高くつく。映像や美術や、ほかのさまざまな要素を作り込まなければならないからです。現代を舞台にした映画なら、そういったコストを削減できますよね。でもそれは果たして芸術なのだろうか?
あるテーマを、あるストーリーをただ映像化しただけでは、芸術とはいえません。大事なのはトランスフォーメーションです。テーマやストーリーを、一つの表現に変換する。洗練された表現だったり、複雑な表現だったりにトランスフォームさせることで、観客の魂を揺さぶる芸術になるんです。映画はそこを目指さなければならないと僕は思っています。