江戸から続く秘湯を守る猫
北温泉は数多くの温泉が湧く栃木県の那須七湯の一つに数えられる由緒正しい温泉宿。創業は江戸末期にまで遡り、現在も江戸期の建物を宿泊棟として使用するなど、昔ながらの湯治場の佇まいを残している。約1200年前に天狗が発見したという伝説から内風呂には巨大な天狗の面が飾られ、その神秘的な雰囲気から全国屈指の秘湯として人気を集めている。
ここに棲(す)む猫がモモとマル。どちらも身寄りを失ったところをこの宿の主に引き取られた。11歳のモモは穏やかな性格で、お客さんが来るとフロントで礼儀正しくお出迎えする。一方4歳のマルはやんちゃ盛り。いつも広い館内を歩き回っている。宿から400m以上離れた駐車場まで独り山道を登り、迷子になった揚げ句にお客さんに連れて帰ってきてもらったこともあるのだとか。
「北温泉には創業間もない頃から猫がいたそうです。このあたりはネズミやヘビが多くて、それを退治するためだったそうですが、マルも狩りの名人なんですよ」と番頭さん。もう一つ、北温泉に伝わる、不思議な猫の言い伝えを話してくれた。
猫たちは宿の歴史の一部。秘湯の神秘を伝える2匹
「その昔、隣の福島県の村で、尻尾が二股に分かれた猫が見つかって、化け猫だとしてひどい仕打ちを受けたそうです。その猫がおばあさんに姿を変えて、この北温泉で働き始めました。ある日、化け猫騒動のあった村からやってきた客が宿に泊まると、その人は無惨に殺されてしまった。おばあさんは姿を消し福島県の裏磐梯に移り住んだそうです。そこは今、猫魔ヶ岳と呼ばれています」
それ以来、北温泉では尻尾が二股になりそうにない短い尾の猫ばかりを飼ってきたという。あれ、でも確かマルの尻尾は長かったはず……。
「そうなんです。可愛さの方が優って、例外を作ってしまって。今のところ、怪しい気配はないので、大丈夫かなと(笑)。でも夜、誰もいない真っ暗な館内をマルが歩き回っている姿を偶然見かけると、やっぱり少しミステリアスな感じがします。お客さんもドキッとするかもしれませんが、それも古い歴史を残すこの宿の魅力の一つ。よく“看板猫”と言っていただきますが、この子たちはアイドルというより、この宿の一部という感じ。もっと言えば歴史の一部なんじゃないかと思っています」
宿に泊まった夜、露天風呂を探してうろうろしていたら、廊下の隅からマルが現れて、トコトコと前を歩き始めた。器用に別館に続く扉を開けると、外湯へ続く板張りが見えた。気づくとマルの姿は消えていて、不思議な気分だけが残った。
常連さんに聞くと、ある時は、館内から参道が続く温泉神社への先導をしてくれたこともあったのだとか。あるいは北温泉の猫たちは代々、温泉を守るために遣わされた存在なのかもしれない。天狗様たちの大きな面に囲まれながら湯に浸かっていると、けっこう真剣にそう思えてくるのだった。