対話から生まれた映画が、あなたと私をつなぐ言語になる
清原惟
私は高校生の時、安い中古のハンディカムを買って、毎朝一緒に登校していた子と初めての映画を撮った。女の子がイマジナリーフレンドと小さな旅をする話なんだけど。
太田達成
ちゃんとお話があるんだ。
清原
脚本っていうほどでもない、メモみたいなものを書いたんだよね。文化祭でも上映してみたんだけど、国語の先生が褒めてくれた以外何の反応もなかった。おーちゃんは?
太田
一番初めは大学2年の時、mixiでカメラを持っている人に声をかけて2人で作った映画かな。トイレに行く前の時間を映して。
清原
ドキュメンタリー?
太田
いや。外で撮影する方法がわからなかったから家の中でカメラを回すことになって、そこで「人が立ち上がる瞬間を撮ってみよう」ってことになったんだよね。3、4カットぐらいで編集もしていない、撮ったままみたいな映画だった。
互いの現場を見て
太田
きよちゃんの映画にはずっと観ていたくなる球体のような印象があって。その完成された世界観がどんなふうに作られているのか気になっていたんだけど、撮影現場に参加してみると、その場でどんどん映画が変容しているんだよね。
清原
脚本が基本にありつつも、一つ一つのシーンをどう作っていくかみんなで話して、現場で新しい発見をしながら撮っていったよね。当たり前だけど、俳優もスタッフも、自分の理想を実現してもらうためにいるんじゃなくて。その場にいるみんなの間にあるものを浮かび上がらせていくような感じだった。
太田
いかにプラン通りに撮るかばかりを考えるのは結構しんどいし、そうやって撮った映画が果たして面白いのかということもあるよね。
清原
みんな生きているし、空間も変わっていく以上、想定と違うことが絶対起きるのが映画製作なんだと思う。おーちゃんの現場には、いい意味で余白があるよね。
太田
『石がある』の現場は、みんなところどころで昼寝してたしね。
清原
それがすごくよかった。スタッフ、キャストが寝泊まりも一緒にしながら、みんなで川に行く経験自体が映画を作り出している気がして。撮っていたことと撮っていなかった時間が自分の中で混ざるような。
太田
今回は特にそうかもね、人数も少ないし。友達とか、本当に対等な関係でいられる人たちと映画を撮りたい気持ちがあるから、自然とそういう現場になったんだと思う。
対話装置としての映画
清原
机に向かって脚本を書いた内省的な時間とか、仲間たちでぎゅっと集まって作った映画が、世界の人から観ても何かを感じ取れるものになっている事実に、いまだに驚くことがあるんだよね。でもそれによって、自分と世界が繋がっている実感を持てるようになった気もする。例えば今パレスチナで起きていることも、ひとごとじゃないと感じるし。
太田
自分もこの間、サンパウロで映画を観てくれた人から「劇中の風景を観て、心震えた人がいると伝えたくて連絡しました」って感想メールをもらって。当たり前かもしれないけど、ブラジルの人とも対話できるんだなあと思った。物理的には地球の裏側にいるけど、「あなたと私」って距離感になれたというか。
清原
映画祭のQ&Aも、最近は楽しめるようになってきた。海外だと観てくれる方のバックボーンもさまざまだけど、映画を通して対話ができることに、すごく希望を感じる。