Watch

Watch

見る

子どもの頃に見た奄美の鮮烈な景色。しまおまほが巡る東京都美術館『田中一村展』

上野の東京都美術館で開催中の「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」展は、平日でも開館時から行列ができ、大きな反響を呼んでいる。奄美大島にルーツを持つ漫画家のしまおまほが、田中一村の作品の系譜から感じられたものとは。

photo: Shu Yamamoto / text: Mikado Koyanagi


田中一村は、1908年に栃木に生まれ、移住した鹿児島県の奄美大島で1977年に69歳で没した日本画家だが、生前その作品はほとんど知られることはなかった。ところが、没後奄美で開かれた初の個展が話題となり、その後その噂は少しずつ広まり、美術館規模の展覧会が何度も開かれたり、次々と一村の画集や評伝が出るなど、ちょっとしたブームにもなった。

2001年には、奄美に一村の個人美術館もオープンしたが、それほど一村のイメージと奄美は分かち難く結びついている。「アダンの海辺」など、一村の代表作と言われる作品のほとんどは、奄美で描かれたものだ。

「アダンの海辺」(1969年)
「アダンの海辺」(1969年)

同様に深い縁があるのが漫画家のしまおまほだ。父方の祖父は、『死の棘』などで知られる小説家の島尾敏雄、そして祖母も同じく小説家の島尾ミホで、その代表作『海辺の生と死』にあるように、奄美の加計呂麻島出身。

戦時中、軍の命で赴任してきた敏雄と彼の地で出会った。二人はすでにこの世にないが、しまおは、墓参りなどで今も年に3回ほど、奄美を訪れているという。

「奄美へ頻繁に行くようになったのは大学生の頃。同時期に『田中一村記念美術館』ができて、存在を知りました。当時は、奄美に住む親戚の叔母が、一村の絵をモチーフにしたスカーフやハガキを持っているとか、そんなイメージで見ていました。比較的上の世代の人が好むものなのかなと。化粧水やハンドクリームのパッケージにもなっていましたね」

今回の展覧会は3章構成。最初のパートは、若き日の作品が集められている。5歳で東京に引っ越した一村は、彫刻家の父親の薫陶を受け、幼い頃から日本画においてその才を発揮し、今回展示されている「菊図」のように、およそ7歳の子どもが描いたとは思えない絵を描いている。

そして、10代の頃には、新進気鋭の南画(中国の南宗画に由来し、江戸時代に日本で独自に解釈され発展を遂げた山水画)作家として、将来を嘱望されるほどまでになっていた。

「初期は父親の影を強く感じました。描かされているわけではないのかもしれないけど、うまいから描けちゃうみたいな。でも描き進めていくうちに、自分の中の情熱に気づいて、その源をずっと探していたんじゃないかな、と妄想しました。そういう一村の強いパッションが、後に奄美の植物の持つ生命の力とピッタリ合ったんじゃないかと思うんです。今回の展覧会で作品の系譜を辿ると、そこに辿り着くまでの旅のようにも感じられるんですよね」

そのように、前途洋々と歩んでいた一村は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の日本画科にストレートで合格するも、家庭の事情もあり、僅か2カ月で退学している。その後も、父の死など身内に不幸が重なり、一家は千葉に転居した。

この頃、家族を食べさせるために内職で行っていた木彫りの仕事では、木魚まで作っていたという。

展覧会の第2章は、その千葉時代の作品を中心に構成されている。この頃は南画から少しずつ離れ、頭の中の理想郷としての風景から、身の回りの風景や花鳥を写生するようになった。そこで一村は、写生のために、時にカメラにも頼ったのだが、撮った写真も多数展示されている。しまおさんはことのほか、写真のコーナーに見入っていた。

「写真は、一村の視点、見えていた世界がより具体的に感じられる。構図も一村の絵のようで、撮る時にすでにイメージが固まっているの?って驚きました。また、植物とか景色とか、絵のモチーフにするための写真だけじゃなくて、甥っ子とか家族に向ける眼差しも垣間見えて。しかも、それらがとっても良い写真なんですよね」

近年、世の中に田中一村の名前が知られるようになればなるほど、各方面から作品の発見が相次ぐ。今回の展覧会でも、奄美に至るまでの1章と2章が充実した内容になっていたのには、そんな理由がある。

一村の撮った写真を楽しそうに見入るしまおさん。特に甥っ子の写真がお気に入りのよう。


九州・四国・紀州旅行をきっかけに、南洋の自然風物に目覚め、ついに1958年に奄美行きを決意した一村。その奄美時代の作品群が、今回の展覧会の最後の第3章を飾る。

しまおさんは、初めて奄美を訪れた日のことをよく覚えている。一村が奄美で働いていた大島紬の工場のあった大熊界隈を描いた風景画。「この風景、どこか見覚えがある!」。

しまおさんも初めて奄美大島に渡った時のことを鮮明に覚えている。

「初めて奄美に行ったのは、小学2年生の時。船で鹿児島の港を出て、明け方に着くんですけど、初めて船に泊まったということもあって一睡もできず、明け方まで起きていたんですね。

すると、真っ黒いモコモコした島が近づいてきて。一村の奄美の絵って、よく手前を色濃く、影みたいに描いていますけど、まさに緑というより真っ黒な島だったんです。あんな自然の塊みたいなものを見たことがなかったから強烈でしたね」

「枇榔樹の森」(1973年以前)
「枇榔樹の森」(1973年以前)

一村は、大島紬の工場などで働きながら、貧しい暮らしの中で、奄美の自然をその目に、その筆に収めていく。そこから、「アダンの海辺」のほか、「不喰芋と蘇鐡」や「枇榔樹の森」といった、奄美らしい植物を主題にした傑作が生まれた。それにしても、この蒸せ返るような植物の描写ときたら。

「だいたい4カ月に一度、奄美に行くんですけど、東京に帰る時に、母が祭壇の花瓶に、その辺にある葉っぱ、それこそ一村が描いているクロトンの葉などを、適当に一本差して帰るんですね。ところが、四か月後に戻ると、それが家の中で物凄い勢いで育っていたりするんですよ。花瓶の中の水は枯れているのに。とにかく、生命力が凄い。向こうから迫ってくるような、我が物顔な感じがあって」

私たちが南洋の島にイメージするような青い空や青い海は、一村の描く奄美の絵にはほとんど見られない。むしろ、空も海もどことなく暗い印象なのだが、それをしまおさんはこう説明する。

「曇天のイメージはすごくありますね。それに、現地の人は、曇り空の海が一番綺麗だって言うんです。私も何となくそう感じます」

「アダンの海辺」を前に佇むしまおさん。アダンの実は、パイナップルに似ているとのこと。

最後に、しまおさんの視点で、この展覧会の見どころを語ってもらった。

「奄美までの過程を伏線回収のように観ていくのも面白いですよね。初期の頃にも、棕櫚を墨で掛け軸に描いたものもありますし、それもどこかで奄美に繋がっていくのかなと。鳥もそうですよね。そんなことを考えながら観るのも楽しいと思います」

「初夏の海に赤翡翠」(1962頃)
「初夏の海に赤翡翠」(1962年頃)