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コピーライター・仲畑貴志が語る「骨董」というロマン

仲畑貴志さんが2000年に出版したエッセイ集『この骨董が、アナタです。』のタイトルは、まだほとんど骨董を持っていなかった仲畑さんが、ある雑誌で白洲正子と「骨董対談」をすることになり、彼女の前に汚れた粉引(こひき)の徳利を差し出したところ、「この徳利が、あなたです」と言われたエピソードからつけられている。その後、どっぷりと骨董の世界にハマり、「目を三角にして」蒐集(しゅうしゅう)に奔走した仲畑さんが語る、そのあまりにも人間らしき「病(ロマン)」の症状とは……。

photo: Shin-ichi Yokoyama / text: Kosuke Ide

俺は骨董の世界に写経から入ったから、ちょっと異質なんだよね。だいたい、骨董を始める人はの蕎麦猪口あたりから入るのが普通だから。昔、井上有一という書家が好きだったんだけど、彼が亡くなって、ほかの現代の書家を見たけどいまいちピンとこなかったのね。

そんなとき、たまたま京都で空海の風信帖(ふうしんじょう)を見て「こんなすげえのがあったのか」とびっくりして。その話をあちこちでしていたら、その同時代の書が手に入るらしいと。例えば大般若経だと600巻で1セットなんだけど、それを何行いくらで切り売りしてくれるところがあるんだ。ポケットマネーで買えるわけ。それで骨董屋をいろいろ見て歩くようになった。それが入口だね。

店主と話しながら少しずつ壺を見ているうちに、これが信楽(しがらき)でこれが丹波(たんば)とか、まず産地の区別ができるようになる。そうして、信楽なら信楽における優劣がなんとなく理解できるようになる。違いがわかるということは価値を知るということだから、自分がいいなと思えば手を出しちゃうよね。

それで、壺を一つ買うと、これは何だろうと興味を持ち始める。調べているうちに、なるほどこれより上があるのか、と。人間は下より上がいいから、上が欲しくなる。まったく単純なことだよ(笑)。

仲畑貴志
白洲正子に「この徳利があなた」と言われた、思い出の李朝の粉引の徳利を手に眺める仲畑さん。この部屋で骨董仲間と自慢の酒器で酒を酌み交わす時間が好き。

数ある信楽の壺でも、
自分がいいと思った壺はそれ一個。

骨董って、例えば「ぐい呑み」という酒飲むだけの小さな器が100万円、200万円とかするわけで、経済性というのはどうしても背後にある。ところが、やっているうちにそういうのが関係なくなっていっちゃうんだ。愛しちゃうんだよ。買った壺と一緒に風呂に入ったりするやつもいるからね。相当イカレてると思うけれども、その気持ちもわからなくはないね。

とにかく、いいと思ったら何も関係ない。脅迫してくるんだよね、ものが。どう脅迫してくるかっていうと、「オンリーワン」っていうこと。もし工業製品でこれいいなあと思っても、まあ次の型が出てくるかな、っていう発想もあるけど、室町や平安時代の壺を見て「いい壺だな」って思ったとき、同じやつはもうないわけでしょ。もちろん室町の信楽の壺なんて数あるけれども、自分がいいなと思った室町の信楽の壺はそれ一個しかないわけ。何個もあったら、人間「ちょっと考えよう」って思うじゃない。

それを買わなければ二度と手に入らない、というのがいちばん大きいところだね。骨董というのはそういう「毒」を持っていて、日常性を超えさせる。例えば、昔は財閥系の実業家ですごいコレクターがいて、絵やら壺やらと番町の屋敷とを交換するなんてことをやってる。彼らみたいな大富豪ですら「もうたまりません」というくらい、ギリギリのところまでいかせるものなんだ。骨董にはそういう、良く言えば魅力だけど、脅迫、強制があるね。怖いもんではあるよ。

これは本の中にも書いたんだけど、俺が骨董を始めてまだ間もない知ったかぶりの時期に、地方の骨董屋さんに入ったら、いい感じのぐい呑みが一個あって、李朝の白磁だとわかったんだけれども、店主に「これいくら?」と聞いたら、彼が人差し指を立てて「これだけです」と言ったんだ。そのとき、俺はそれが1万か10万か100万か、まったくわからなかったの。だけど、この世の中にそんな商品ってある? 

酒でも車でも何でも、ものを見れば、だいたいの見当くらいはつくじゃない。1万円と100万円じゃ100倍違うわけだからね。そんな商品、あり得ないでしょ。それで、こっちも恥ずかしくて聞けなくて、「どうしようかな」と考えた揚げ句、「ちょっと安くしてくれる?」って言ったら、店主が「じゃ、1万まけましょう」と。そこで初めて、ああこれは1万円でも100万円でもなく、10万円だったんだとわかった。やっぱり不確かなものって面白いじゃない。定価も希望小売価格もないしさ。オークションなんて、本当に欲しいやつがたった2人いるだけで、値段はどこまでも上がっていってしまう。可笑(おか)しいよね。

真贋に保証はない。
でも、器量さえあれば、それを楽しめるんだ。

もう一つ、骨董の怖いところは、贋物があるということ。工業製品には贋物っていうのはほとんどないけど、骨董ではジャンルによってはかなりある。良寛の書なんて95%贋物だといわれていて、いっぱい流通している。俺も贋物にはずいぶん引っ掛かったよ。今は「何であんなものを買ったのか」と思うけれどね。

昔、地方都市である李朝の徳利を綺麗だな、いいものだなと思って4つ買って、それを友達がやっている東京の一流の骨董屋に持っていったの。すると店主が「ちょっと仲畑さん、これ使わせてもらっていい?」と言うので、「どういう意味?」と聞いたら、「うちの若い者に見せる」と。それで、店の従業員たちを集めて、「これを買うか買わないか?」と尋ねてるんだ。俺は試験台にされているわけだよ。そしたら全員「買いません」と答えて、「よし、お前らエライ」だって。じゃあ俺はエラくないのかって(笑)。

本当に自分にとって価値があると思っていたら、別に贋物だとわかっても動じないよね。ところが、いざ「贋物ですよ」と言われるとフラ〜ッとしちゃうわけ。でも実際は真贋に保証なんてない。まったく不確かなんだ。

自分がいいと思って買ったものを床の間に飾って、目利きだと思う友人に見せたら、「失礼だけど、これはダメ(贋物)だと思うよ」と言われて。「参ったなあ」と思って縁の下に仕舞い込んで、その後でよく家に来る骨董屋に「これこないだアカンって言われたんだけれど」と見せてみたら「いや、これはいいですよ」と言われてまた床の間に上げて、縁の下と床の間を行ったり来たりするとかね。割らなくてよかった、と思ったりして。じゃあいったい俺の目はどこにあるのって。

だけど、それって面白いことじゃん、ある意味。心が振幅するというのはあながち悪いことではなくて、器量があればそれを楽しめる。そのへんの態度というものがいちばん問われる。そこも骨董の面白さだね。

骨董は裾野からから
上がっていくもの

あとはやっぱり環境の問題もある。白洲正子さんとか青柳恵介さんとか、「同好の士」というか骨董に狂った人が何人か集まってやっていた頃がいちばん盛り上がったよね。白洲さんよりもいいのを見つけてやろうと。でもそれってターゲットが1人しかいないわけ。白洲さんに見せて、「ああ、いいね」で終わりなんだから(笑)。

そもそも骨董なんて見せる人がいないんだよね。相性とかレベルもあるし。うちの会社の若いヤツなんかに見せても「うわ、汚いっスね」とか言うだけでさ。こちらは「バカヤロウ、これはなあ……」って言うんだけれど、気持ち悪いって言うんだからしょうがないよね。わからない人に褒められても嬉しくないしさ。孤独なもんだよ。

白洲さんはとにかくフェアな人だったね。だから一緒に骨董屋なんかに行っても、奪い合いを平気でやる。でもそれって相手を認めていることだから。遠慮なんてしなくていいのよってはっきりおっしゃるし。単刀直入でヨイショが一切ないから気持ちいいですよ。

あと、白洲さんが晩年にかなり高価な徳利を買って、今持っているものをいくつか手放すことになって、彼女の持ち物を整理したことがあって。すると、家の奥の座敷に、あまり価値のなさそうな古物が山盛りあったんだよ。白洲さんでもああいうものを買ってたんだね。骨董ってやっぱり裾野から上がっていくもんだなって思ったよ。いきなりジャンプして一等賞から始められるもんじゃない。

白洲さんの主張は「頭でものを見るな」ということだった。知識や情報で見ると誤る、直観で見ろという考えの持ち主だった。青山二郎や小林秀雄なんかもまったくそういうノリだったんだろうね。その意味では、「目利き」というものはすごく難しいよね。もちろん真贋もあるけれど、趣味性の領域に入って、「何が趣味が良いのか」というと、もっとわからないし。多数決で決めるもんじゃないでしょ、美というものは。だからますます混乱する部分だよね。

結局、買って
自分のものにしないと
見えてこない。

仲畑貴志の骨董コレクション
仲畑さんが手元に残すぐい呑みコレクションの中でも特にお気に入りの3種。上から、無地唐津の口縁に茶褐色の鉄釉をぐるりと塗り、鯨の皮身に見立てた「皮鯨(かわくじら)」。中は釉下に鉄絵を施した絵志野、下は室町時代末期〜桃山時代に美濃(岐阜県土岐市とその周辺)を中心として焼かれた古陶・黄瀬戸のシンプルな六角盃。

今はそれほど骨董に対して血眼になっていないよ。買うお店を決めているからね。最初は「掘り出し物」という発想があったんだよ。そういうのが見つかるといちばん威張れるじゃない。でも、いくら地方に行っても、掘り出し物はないんだってことがわかったから。今は一等賞のものしか欲しくない。国宝だけが良いっていうわけではないけれども、それぞれのジャンルの一等賞はやっぱりいいね。歳も歳だし、たくさん持っていてもしょうがないし。気に入ったものが少しあればいいなと思うから。整理もしてますよ。例えばぐい呑みはいくつもいらない。それでもやっぱり40個くらいはあるけどね。

結局、買って自分のものにしないと見えてこないんだ。博物館とかお店で見ていても見えないのよ。その成長するプロセスで必ず引っ掛かるというのもあるね。失敗したくなくても、失敗せざるを得ない。買わなきゃ見えないっていうのは困ったもんだよ。ものは見えているのにね。

俺は青山・骨董通りの〈双木(なみき)〉という店と早い時期から付き合っていて、そこから買ったものはまだ全部持っている。ただ俺と趣味が一致しただけで、ほかの人だったら飽きて手放すことになっていたかもしれないけれど。骨董を始めた頃はあまりお金を使いたくないから安いもの、割れていたり完品でなかったりするものを買っていたんだけど、今でも大事にしている。ぐい呑みでも、最後に残そうと思うやつが案外、貧乏くさい渋いやつだったりしてね。

今は骨董を始めるにはチャンスなんじゃない?壺なんか一番高かった頃の何分の一の価格になってるから。本当に楽しむだけなら、損はないと思う。だけど、昔むちゃくちゃ欲しかった壺が一個あって、それがいざ3分の1くらいの値段になってしまうと、何だかもういいや、欲しくないやと思ったことがある。不思議だよね。昔だったら、3分の1くらいの値になってたら買ったけれど、今は買わなくなった。きっとそれが一等賞じゃないからなんだろうけどね。

骨董って、買う理由を自分で見つけるというか、自分で自分を騙す行為をするんだ。例えば、チャーミングな皿があったとする。「これ、塩豆を入れたらいいな」とか思うのね。だけど、考えたら1年に何回、塩豆を食うかっていったら、まああっても1回くらいか、ゼロか。あるいは酒を飲む器だなんていっても、別に100円ショップでも売ってるじゃん。骨董である必要がない。だから全然、酒を飲むためのものじゃないんだよ。機能するものなのに実際使ったことがないなんて、じゃあ俺はいったい何を買ったんだと。何も買ってないことになる。まったく病気だよね。でもアホなことを目いっぱいやるっていうのも粋なもんじゃない? やっぱりお利口ばっかりじゃつまんないからさ。

骨董品が気になったら
白州正子の骨董の師匠、伝説の目利き・青山二郎」を読む。